溢れろ僕の涙、僕の威厳のために。(詩を写す。第五回、小沢健二・後編)

小沢健二 / その他 詩篇・散文 つづき



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「オリーブの秘密」

さて、LIVIN' LARGE、なんて言葉があります。どういう意味かというと、
デッカク行く、ということ。買いたいものをガンガン買う。
あだ名が「食う」ってなるくらい食う。ホテル行ってプール飛びこんで
シャンパン飲んで外車ぶっとばす。快楽がある所はどこへでも行くし、
寝る時はグウグウ寝る。 それはそれで一つの価値観で、そういう暮らしに憧れる気持ちが、
「イチロー切れた!美女と10億!」のスポーツ新聞の見出しや、
「ぜったい欲しい!真夏のグッチ!」の女性誌のコピーを生んでいるのではないかと思います。
それはそれで、人間らしく、美しいこと。
けれど、それに対応して言うなら、「オリーブ」は、服の値段の上限を決めることで、
自然とLIVIN' SMALLと云うか、LIVIN' LARGEに対して、別の行き方を打ち出している訳です。

雑誌を作っている側には、そんな気持ちは、あまりないのかも知れませんけど、
買う側の人は、隣にスポーツ誌のような女性誌があるのに「オリーブ」を買う訳で、
そこには一つ、選択があるのです。

「シャネル」に憧れない、ということ。まあ、ちょっとは憧れても、
ぜったい欲しい、とは思わない、という気持ち。

そういうこととは別の行き方。もちろん、チープシック、とかいう意味ではなくて。

そこには、きっと何か他のイメージがあるのです。

そしてそれは、LIVIN' LARGEを実際に実現している人たちが、
実はすごく憧れるところのものだったりするのです。

「学校へ行く人に」

もし音楽をやって人前に出ることがなかったら、
僕は人についてあまり深く知ることはなかったんじゃないかと思います。

人について、と言っているのは、実際に会う人についてだったり、
人一般についてだったり、自分についてだったりもするのですが……。

この前、頼まれて、卒業式のためのビデオレターというのをやってみました。
ビデオを撮れる友だちを朝早く叩き起こしてその家におしかけて、
本当に迷惑な隣人だなあオレは、と思いながらも、挑戦してみましたよ、
卒業生へのコメントというものに。

それで、まず、学校の勉強にはどんな意味があるのだろう、
と考えて、うん、これはやはりほとんど意味がないのだな、
と思ったのですよ。
「カノッサの屈辱」とか、変な言葉を共有したり、
世界地図をおぼろげながらに憶えてみたり、
「微分・積分」なんてパズルみたいなものをやってみたり、
まあ一日中フナでも釣ってるよりはいいかな、という程度の、
共通の話題づくり、というか、そうか、
「人類共通の話題づくり」と思えば、ちょっとはやりがいがありますね。
「九・九」「ナポレオン」から始まって、「エンゲル係数高め」
なんて将来誰かが言った時に調子を合わせるためというか、
そんな程度のものかもしれません。
でもまあ、何かの基盤にはなる訳だから、
好きな科目があればやればいいし、
嫌いな科目はまあ調子を合わせとくくらいで、
冗談の基盤でも作っとけばいいんでしょう。
あとは、ゲームで高得点を取らないと気が済まない人がいるように、
テストで点数を取る、ということ自体に楽しみを見出しても、
それは別に罪ではありません。

「三角関数」なんてのは、将来専門職につけば、
よく使ったりもするようですが、
その場合は、もう「三角関数」なんてことをあまり意識しない、
もっとその根本が体でわかったもの、血肉化したものになっているようで、
学校で習うものは、「こそー已然形」であれ、「pH」であれ、
「反復横とび」であれ、「ハ短調」であれ、その時点では、
机上の空論です、まったく。

で、そんな将来のジョークの種を仕入れつつ、
漠然と、自分はこれでいいのかな、なんてことを考えながら、
学校へ行くのですが、実際一生残るのは、実は後者の方の、
自分はこれでいいのかな、という方で、これは死ぬまで残りますね、まず。
「秦の始皇帝」なんて完全に頭から消えますが、学校時代に始まった、
「これでいいのかな」は、だいぶ残るようで、
飲み屋などで大声で暴れてみたり、
「何か夢中になれるものが欲しいの」とか言って、
突然日記をつけだしてみたり、いろいろな症状となって現れます。
昔のような、足袋屋のおかみさんのような、どっしりと安定した人というのは、
今ではほとんどいなくなって、みんなして、
秘密と嘘をかかえてたりするようです、現代では。何でだか知りませんが。

それで、「三角関数」がわからなくて自殺する人はいませんが、
「自分はこれでいいのか」がわからなくて自殺する人はいる訳で、
「これでいいのか」は、やはり学校の勉強より大事なことのようです。

そんな大事なことを教えてくれないのですから、
学校なんて、あんまり大した所ではありません。
教えてくれればいいのに。お前の人生はコレダ、とか言って。
しかしそれは教えてくれず、代わりに小林一茶の人生かなんか教えられて、
はあスズメが、なんてみんなで覚えたりするのです。

しかし、当たり前ですが、お前の人生はコレダ、
とか言って教えられても困ります。
通知表の担任所見欄の、「活発だが協調性がない」とか、
「もっと元気に」とか、大きなお世話だ、
と書き返したくなるものですし、
学校の先生自身が、帰りに飲み屋で、
「オレはよー」とか言ってんですから、ほっとくことにしましょう。

それで結局ビデオレターでは、自分が好きなものを夢中になってやれば、
それが自分のいい部分を伸ばして、嫌な部分を削ってくれるものじゃないかと思います、
なんて言って、 勉強には大して意味がない、先生には合わせなくてよい(大したもんじゃないから)、
あと、好きな相手がいたら、卒業して10年もたって、同窓会で会って、
お互い実は好きだったとか言い出すと、大変なことになるので、今日のうちに言っておこう、
なんてことを言っときましたが、 あと一つ、少しはまともなことを言ったので、
それを書いておくことにします。それは「いじめ」についてです。いじめられている人、
いじめている人、いろんな人がいると思いますが、みんなの好きな、歌手や、俳優さんや、
女優さんの中にも、いじめられていた、という人は実はたくさんいます。 それで僕は思うのですが、
いじめる、というのは、その人に、何か他の人にはない資質、つまりすごいかわいいとか、
何か力が秘められているとか、 その匂いがするからいじめる訳で、
いじめられてる人はおっ、オレ(或いはワタシ)、実は何かがあるのかも、と思って欲しいのです。
あとは、いじめてる人は逆ギレされて、ぶっ殺されたりしないように。

「その日は雨だった」

ではどうやって「580円の定食屋」を保護したらいいのか?
今のままでは、リーヴァイスの古いジーンズと同じで、無くなる一方なのです。
若い人が、定食屋を始めるのは無理だとして、エロやカラオケに対抗しつつ、いかに?
戦争なんてのは全然反対ですが、この場合は、「徴兵制」みたいなシステムにしてみるか?
18才になったら、一年定食屋に徴用される。
大学に行くなら、「定食屋免除」とか「定食屋拒否」。当局に追われる。

こんなのはムチャクチャですが、そうでもしないと人手が確保されないでしょう?
働き手がなくて定食屋がなくなっていくのだから…。

それか、食ったら、次の人の食事を作って店を出る。
これなら「笑っていいとも!」のテレホン・ショッキングみたいに循環する。

違うな…。

まあとにかく、何らかの公共機関が必要です。

郵便局や警察のように。交番のように、
極めて安い値段でお腹いっぱいになる「定食所」があるためには、まず人手の確保です。
徴兵制がないとして、「定食リレー」もないとして…。

大学の単位にしてしまうってのはどうだろう。
週2時間勤務で年に4単位。週4時間なら年に8単位。それ以上働くと、
単に「定食屋の人」になってしまうので、それ以上はダメ。

必修にしてしまって、1年の時は給仕、2年の時は調理、
とすれば大学行った人は、イワシは焼ける、タマゴは巻ける、ゴハンは盛れる、
タラコは食える(失礼)、何の問題もありません。

そうすると、大学に行く人は年に100万はいるだろうから、
物凄い労働力が確保されます。国が経営するのでめっぽう安い。
きんぴらなんて、「夢の二ケタ台」か。何が夢だか。

そうなると、所轄官庁もしっかりしないといけません。「食事庁」。
都庁みたいに、でっかいビルも建ててみたい。丹下健三さんのデザインで、かなりイルな建物を…。

食事庁長官。日本の食を守るのが使命か。でもタマゴ焼きは巻けない。
でも口は出す。おしのびで視察。いつもお腹いっぱい。「オッホン、ワシはもう食えんよ。」

だからどうした。

「長官、そう言わず」

「注文はむずかしい」

周りを探る、という行為は、食事家たちがみんなやる行為なので、
早い時間に来た人が、メニューにない特別な料理を頼んだりすると、
しかもそれがその日のみんなの気分にぴったり合ってたりすると、
来る客が次から次からリレーのようにその料理を頼んで、
もう、今日は大変なことになったよ、と思いながら、コックさんは厨房でフライパンをふるいます。
ウエイターの人たちも、立ち仕事で大変なのは判りますが、
たまに言葉が一本調子になっている人がいて、「サラダの方は」「お肉の方は」
「コーヒーの方は」「トイレの方は」「お会計の方は」、と、
これは全然責めるつもりはないんだけど、もっと言葉が豊かな方が、
いい仕事になるのにな、と思ったりします。
でも、いざ自分がやれって言われたら、全然できない自信があります。

注文の仕方は、きっと普段の自分以上にはならないもの。
失敗してしまっても、失敗なんか、僕らは普段からしてるじゃないですか。

「その一言がわからない」

携帯電話が普及している今日びの日本、電話をかけるのも、
結構大変になってる気がしませんか? 全然そんな風に思ったことのない、
電柱のようにたくましい意志を持った人は別ですが、普通の人は、実は結構、
気を使ったりするものだと思うのですよ。
すなわち、相手に、「私は今、あなたに電話をかけているが、あなたは、
今、私のこの電話を受けては、マズイ状況にいないか、私と話すのは、
本当に気楽な、オーケーなことなのか?」というのをたずねる、その一言が、どうも難しい。

そういうあらゆる状況、あらゆる精神状態に対応できる、
前述の、「あなたはオーケーか?」をたずねる、オールマイティーな一言はないのでしょうか?

「今、いい?」とかがまあ、わりと「もしもし?」に近い感じというか、
意味がなくていいのですが、そう考えると、携帯電話にかけてまず最初に知りたいのが、
「あなたは今話せる状況か?」ということだというのは、誰しも同じ状況なのだから、
「もしもし」のような、意味を失った共通言語を、NTTあたりが開発して、
いちいち微妙なニュアンスが発生しないようにしてくれたらいいのに、とも思います。

例えば、「フジヤマ?」がその語だとすると、
電話をかけた人の一声はかならず「もしもし、○○です。フジヤマ?」となる訳で、
何のニュアンスも発生しません。

あ、電話だ。

「はい、小沢です。…ノー、フジヤマ・ノー。原稿書いてる。」

後でかけよう。

「すっかりその気で」

すっかりその気の極致というのは、へヴィメタのコンサートの客席で、
見えないギターをかきむしってる、あの男たちですね。
あいつらはその気ですよ、相当。
もうちょっと一般的なレベルでは、みんな身に憶えがあるでしょう。
今日はこのシャツ、この靴、この靴下か?寝ぼけまなこのボンヤリ頭から、
その日の、「その気づくり」がはじまるのです。

用意のいい友人が言うには、前の晩から次の日の、「その気」を計画しておいて、
もう明日はこの靴で、とか決めてるそうです。本人が言うには、
「その気」になるまで平均2時間を要するらしく、前の日から用意しておかないと、
ダメだそうです。しかもそうしておくと、「寝つきがいい!」とのこと。

確かに、「その気」になるのを失敗した日は、少しなしくずし気味に進みます。
ああ、このTシャツじゃなかった、ああ、このTシャツじゃなかった、
と思いつつ電車に乗ったりするのです。

しかし、そんな気分が開き直りを生んで、好結果に結びつくこともある…。

一方、「その気」を優先するあまり、実用性が忘れられてしまって、しまった、
ということもありがちです。このあいだ、よし、今日は、と思って、
短パンでレコーディングスタジオに行ったのですが、だいたいああいう所は冷房が、
機械のためにきつくしてあるので、冷えてしまって、情けない状態になってしまった。
しかも、そんなことは前にもあって、既に何度か痛い目にあっていたのに…。痛い…。膝が…。

「適当に」

よく「頑張って」という言葉を聞きますが、「ガンバッテ」は、
「ガ」は「我」に通じるような気がするし、 「頑」は「ガンコ」、それを「張る」、
というのはどうも変な気がして、逆に力を阻害するような気がして、
ちょっと違和感があるので、 「じゃあ頑張って」と言いがちな状況で、
「じゃあ適当に」と言うのをしばらく押していたことがあって、今も、結構言います。
「適当」というのは、なにしろ「適っていて」「当たっている」なのですから
これ以上のことはありません。「いい加減」という言葉も僕は好きで、
「いい」「加減」なのですから、これまた「適当」同様に、
すばらしい状態を示しているのではないか、と思ってます。

「じっくり待ちなって」

都会の時間と、山の時間と、部屋の中にいる時間と、
お酒を飲んでる時間と、それぞれ、絶対に違うのだ。
グリニッチ天文台が何と言おうが、時計や時間は人それぞれのもの。

「『指さえも』顛末」

9月に発売するシングルは、「指さえも」といいます。変なタイトルでしょう。
自分でも、こんなスタイルの曲を書くとは思わなかった。というか、
こんなスタイルの詩を書くとは思いませんでしたね。

今年の前半、アメリカのカントリーミュージックなんかが好きでよく聴いてたら、
カントリーって、曲がだいたい同じような感じがする分、
歌詞にみんな命をかけているらしく、良く出来たものが多いんですよ。

それで、気がついたんだけど、よくある歌詞のスタイルとして、
①タイトルが変。それだけでは何の歌かわからないタイトル。
②意表をつく訳のわからない話から曲に突入。
③とりあえずサビが来て盛り上がる。しかしこの時もタイトルとは関係なし。
④サビで聞き手が盛り上がってうっかりしているところに、
忘れかけていたタイトルの意味を明かすような一行を叩き込む。
というのが有るようなんですよ。まあたまたま、僕が好きな曲がそういうのが多いかも知れませんが。

それで、ふむ、これはオモシロイ、と思って「指さえも」を書いてみました。
なんか結構、洗練された歌詞のスタイルだな、と思って。

「少し悲しい話」

さて、このあいだ友だちと話してたら、
その子は女の子で普通にオリーブなんかめくってたりするんですが、
最近のこの連載ってのは、普段の、 どーでもよくしゃべったりしてる僕に、
一番近いらしいですよ。確かに、言ってる意味はちょっとわかる。
音楽をやってるってのは、もっと野生に帰ってる気もするし。
普通に、社会的に、友だちと楽しく喋ってる自分てのは、まあこんな感じかも。
それで、ここ1年くらいの、僕が自分で気に入ってる連載の書き方というのは、
なんというか、時間制なんです。 だいたい一時間半、ひと食事するあいだ、
と決めてしまって、今も食事しながら書いてるのですが、家ではなく外の店で、
元々は何もアイディアを考えず、その時出るがままを、一時間半だけ書くのです。
外だから早く終わらないとカッコワルイ。僕の音楽とは、全然表現としては違うモンですね。

だから、こういうう文章を書くのは、これからもやるだろうし、
てことは、またどこかでお目にかかることもあるでしょう。

「鏡の前」

現実のすべての瞬間は美しい。
カメラを向けられている間だけ美しくない、なんてことはないのです。
それにしても・・・まじでだっさい写真!等々思うのは、
誰にでもあること。写真が撮るのは、現実のほんの僅かな部分なんですね…。

という訳で、美しくない瞬間はないが、美しくない写真は死ぬ程ある、
って感じですね。たぶん。

でもやっぱり現実は美しい。 相当大きな目で見れば。

大きな目で見れるかどうかは、また別の問題ってことで。

「意外な結論!」

僕は太陽ってやっぱり破壊するもの、というか最高の毒だと思ってんです。
めちゃくちゃ熱いし。放射線とか出てるし。もし地球に大気がなかったり、
地球がもう少し太陽に近かったりしたら、太陽は生命を育むものではなくて、完璧に焼き尽くすもので。
けども、距離や大気によって薄められて、ちょうど生命を恵むもの、創造するものになってたりする。

それで僕らは、音楽を聴いたり、小説を読んだりするのですが、
それが本当に酔わせるものの場合、その源では、
作者はものすごい破壊的なエネルギーというか、
毒のようなものを抱えこんでしまっていると思うのですよ。
それがなんとなく薄まって届いてくるから、甘い香りがするというか。

しかしやっぱり、それはオオモトの、作者のところでは、
本人も焼き尽くすくらいの、ものなんじゃないでしょーかね。

よくいるじゃん、発狂しちゃう人とか。いきなり自殺しちゃう人とか。

秋深く、読書をしたり、音楽を聴いたりすると、そんなことを思ったりします。

でもやっぱり、太陽によって人は生きているのです。ドーブツとかも。
草木も生えるし、風も吹く。雨も降る。

甘くて、破壊的なエネルギーを持つ、毒に近いもの。
チョコレートとか食べすぎると、気持ち悪くなるしな。
ご飯食べすぎてもお腹いっぱいになるだけだけど。
あと食パンとかいくら食っても平気だが、キャビアとか大量に食うと死ぬかも。

なんて具合に、意外に話がかたまってきたりすると、突然誰か、
あまりにも意外な結論を、結構自信ありげに言い放ったりします。

「やっぱり自分、てことだよな。」とか。

この場合も、アレッ?とみんな思うのですが、確かに悪いことは言ってないし、
そうそう、とか言いつつも、プシューと空気が抜けていきます。

「キンキラキン」

花っぽいことってのは、これに比べると結構貧弱なんですね、たぶん。
散歩とか。 でもいいじゃないですか、散歩とかって。
あとは街中でスケボーやってたり、野山を自転車でのぼりおりしてる人とかって、
目の前の、なんでもない小さな起伏とか、手すりとかが、
自分にとって特別な、喜びを与えてくれるものになってる訳で、
この精神性はかなりいいですね。 散歩とかでも、
路地の奥で猫がこっち見てて、パッと走り去るとか、
そんなことがめちゃくちゃ印象的だったり。魚屋さんが魚さばいてるのが妙に泣けたり。
そういうことは本当になんでもない、すぎてゆく一瞬のことなのに。

栄華や不老不死と正反対の、はかなくて、すごく個別的で、人には上手く説明できないようなこと。

「すすき野原に風が吹く」

富士山の方へ旅行をしたのですが、富士山の方には湖がたくさんあって、
意外に風が強くて湖面には波が立って、
小さな三角形の波がキラキラとたくさん輝いています。

それを見る前に、富士の裾野のすすきの野原みたいな事を、
通りがかって、見たのですが、それにも似ていて、規則はなくて、
やたら細かい波が揺れていて、太陽の光に反射していて、平らで、
変なまだらみたいなのが出ていて、
虎目の猫(柄が。ガラって言うのか知りませんが。)のお腹みたいに、
縞もようが現れたり消えたり。すすき野原ってのは、
風に吹かれた湖面に似ているなと。

一面の、黄金色のすすき野が風に吹かれている様子というのは、
虎目の猫のお腹にも似ていますが、台風の時に道路と見ていると、
ザアザアと起こる様子にも似ています。まだらが現れては消えて、
やっぱ風だからな、とか思いますけど。

さて、目を湖面の小さな三角形から上げると、
超でかい三角形が!!富士山もまっ黒く三角形で、
うーん、富士山も地表の波なのかもなあ、と思ったりします。
他のアルプスの山々も、土の波。ただし超でかい。
あと消えるのが、数万年単位というか、
湖面の波のようにチャプチャプとは消えません。

で、これが何か哲学的な思索に導くかというと、話は全然違う方に行って、
湖面を見てて思うのが、まあ湖とか、池とか、
地球上には水がタプタプと波打っている所が沢山有る訳ですが、
考える訳です、もし、水がぜんぶすすきだったら。
湖面とかは、想像しやすいと思うけど。一面すすき野原で、
そこに、舟みたいなものが浮いている。
なにか、上手くすすき野原に浮かべるような器具が。みんな漕いだりしてる。

釣りとかも、すすき野にひそんでいる猫とか釣るのね。
ねずみ型のルアーとかで。釣れた、とか言って。ニャー、とか言って。

そんで、網みたいなものを足元のすすきの中に垂らして、
ニャーとか言ってる猫を、ヨシヨシとか言って放すのですが、
網の中には、猫が五匹くらい、ゴロゴロ言ってる訳です。

釣り大会なんかでは、やはり大物を釣った方が勝ちですから、
全長を測ります。猫をよく伸ばして、手の先から尻尾の先までが長いのが勝ち。

大会の優勝者なんかは、自分の釣った獲物を手に、
会心の笑みで写真に写っていたりしますが、その手には、
両手をしばられた、かなり全長の長い猫が、ぐったりと握られている訳です。

でも可哀そうだから、釣ったら放す。ニャーとか言って、走っていく。

しかし、これムチャクチャな話で
読んでる皆さんがどこまでついてこれるか分かりませんが、
地球上の水面が全部すすき野だったら、という仮定ですから、
海とかもすすき野原ですよ。当然。
網を曵いて馬とか獲ってる。あとすすきが異常に長いですね。
海では。深いとこで10kmくらいありますか。

ありますか、じゃないっての。

それにしても、異常に似てますよ。
風が吹いている時のすすき野の表面や、湖の湖面や、
地面を見て、雑草なんか生えていますが、それらが揺れてる姿って。

僕が好きな物書きの人で、土石流を見に行くのが好きで、
どこそこで土石流が起こった、となると見に行かずにはいられない、
という人がいるのですが、そういう気分て結構わかります。
要するに、地表が波を打ち、呼吸をしている、
その現場を美しいと思って見にいく。

しかし実際土石流では、それによって人が死んだり、
動物が死んだりしているのですが、それを美しい、
と言ってはいけない、というのは、
全く人間が作り上げた約束事にすぎなくて、
地表が、ごくたまに波を打つのが美しい、と思って、
災害現場を美として見に行くのって、人間の約束事、
人が死んだりした時にはしゃいじゃいけない、
というのを別にすれば、結構まっとうなことなんですよね。

人間の意識って、人間自身が勝手につくった枠組み
みたいなものに結構とらわれていて、
まっすぐに物を見るのって、難しい。難しくって困りますよ、ほんと。

けどある時は、野性の目で、社会的な約束事とか離れて、
星空から見るような目で物を見てみると?

そこで、ニャーとか言って長く伸ばされている猫を想像する
僕ってのも、なんなんですが……。「50cm」とか言って。

「無色の混沌」

僕の友人で、二人姉妹なのに、生まれてから一度も親に、
「お姉ちゃん」と言われたことがないという人がいる。
二人とも「何々ちゃん」と名前を呼ばれるだけで、
そうなると妹の方も、「お姉ちゃん」とは呼ばなくて、
名前で呼び合うことになる。そう言えば彼女にはいわゆる
「お姉さんらしい感じ」はない。「お姉さん」「お兄ちゃん」
と呼ばれ続けることは、その人の性格に影響するらしい。
「兄」とか「弟」とか言うのは、人間が持って生まれた
資質ではなくて、社会に規制された結果、というか周囲が
それを強要してるのである。

人は分ける。上と下。右と左。陰と陽。善と悪。とにかく分けたがる。
自分自身さえも分けてしまう。不良か優等生か。運動神経がいいか悪いか。
人間嫌いか社交家か。完全にどちらかである人なんて絶対にいなくて、
僕らは混然とした存在なのに、混然を受け入れるってのは難しいから、
めんどくさがりの脳は、あるいは機能は、
それ自体をあるがままに受け入れないで、白黒つけてゆく。
そうすると物事は、すごく簡単になるから。ボケとツッコミ。

懐かしいアズテック・カメラの、「ナイフ」という曲は、
この世にはナイフがあって、物事を二つに分断しつづけている、
ということを歌っている。

なんにもない空間である世界を、ナイフで切った、
上と呼ばれる部分にあるとされていること。
寛容、優雅さ、等々。僕は二人兄弟の弟だが、
兄、正しくは「淳ちゃん」を、僕は「お兄ちゃん」
と呼んだりもしたので、その度に彼は、
上の部分に属されていることであらねばならないと思ったかも。
僕は「淳ちゃん」をそう呼びながら、下の部分に属すことになっている、
快活さ、自由さ、等々を意識したのかも。えー、全く無意識に。

二人でいれば、そのまったくくだらないナイフは、
混然として美しい世界をどんどん切ってよこす。
そして切りとられた世界は君の皿の上で、
干からびて死んでしまって、勘定書きの上に、
その名前だけが残るのだ。「優雅さ―一つ。」
そんな風に記されていいものは、この世の中には一つもない。
カレーが、ゆでたニンジンと、いためたタマネギと、
ご飯と、といった具合に出されるのと同じだ。それには何の意味もない。

二人といえば、フリッパーズ・ギターの話もしよう。
これも今のカレーの例えと同じこと。ナイフで分けても何の意味もない。
二人で何となく決まっていたのは、リードボーカルは小山田が歌う。
歌詞とかタイトルは僕が作る。そのくらいのことで、あとは混然としていた。
二人の共同の名前でクレジットしたが、作曲では、僕が一人でしたのは、
「フレンズ・アゲイン」「恋とマシンガン」「カメラ!カメラ!カメラ!」
「全ての言葉はさよなら」。小山田一人なのが「ヘアカット100」
「偶然のナイフ・エッジ・カレス」「ビッグ・バンド・ビンゴ」
「午前3時のオプ」「ラテンでレッツ・ラブ」。
あと「ラブ・トレイン」「パパ・ボーイ」ってのもあった。
他の曲は全部二人で何日も一緒に、どっちかの家で、
夜中にコンビニ行ったりしながら、ラララーとか歌って作った。
青くさい話とかしながら……。

で、二人でいれば混然としていられるのだが、
人目にさらされるとそうは行かない。
二人っていうくらい、微妙な関係はない。
それは他の誰かが、「あいつこう言ってたよ。」というだけで、
余裕でグラつく関係じゃないかと思う。
そして二人でいる人たちにすかさず貼られるレッテル―「仲が悪い」。
オーケー。世の中のすべての二人組を代表して言っておこう。
「お前らに言われる筋合いはない。」以上。

二人、というのは微妙である。
男同士の場合(女同士であったことがないから判らない)、
あまり話が通じてしまうというのも考えもので、
微妙な気恥ずかしさみたいなものが発生したりする。
本当に親しい友だちとは、大勢でいる時には意外に話さなかったりして、
他人を反射して話をしたりして、
二人でいると突然変に盛り上がったりして、
そういうことは結構面白い。そういう友だちが何人かいます。

男と女、となると、みんなご存知の微妙さで、ただの友達の女の子と、
なぜか一緒のホテルの部屋に泊まることになってしまった場合
(状況はいくらでも考えうる)。
恋人同士に、第三者がポンと言った一言で、
恋愛がガラガラと崩壊するさま(この間ポンと言ってしまった)。
AとB二人がいる所に、CがAに、何かBの知らない重大なことを言う。
Aは否定するが、Bの中に生じた疑念は消えない。
Aが肯定しても、Bは「何で言わないんだよ」と思ったりする。
それが良かったり悪かったり。
しかも二人という関係は、どちらかが回路を閉じれば、
それで終わりである。
恋愛や結婚が、三人でするものならば、また違うだろうに、
三人一緒にベッドに入るのは、今のところごく限られた人々だけである。

認識ってのは、普通あまりにも二者択一で、ほんとくだらない。
それは磁石の針のように、こらえきれずにどちらかの極を向いてしまう。
世界が半分ずつ見えなくなっていくだけなのに……。
マスメディアってのは、人間の脳の拡大図みたいなものだから、
その中にいると、人間の癖がよく判る。

けどそういうこと全ては、どうでもいいことだ。
「ラブリー」とか、「いちょう並木のセレナーデ」
といった歌を歌うことに比べれば。これは、僕自身の話。

さて、それでは今度の「ある光」。「ある光」とは「心の中にある光」。

光は全ての色を含んで未分化。無色の混沌。
それはそれのみとして、分けられずにあるもの。
切り分けられていない、混然とした、美しく大きな力。
それが人の心の中にある。

僕らの体はかつて星の一部だったと言う。
それが結合して、体が在って、その心が通じあったりするのは、
あまりにも驚異的で、奇跡で、美しい。

そんな手紙をさっき書いたんだけど、
そんなことを時には本当に思ったりします、僕は。
(映画見て、その気になっていた。)

この記事へのコメント

lisa
2008年12月20日 00:00
ほんとにいいこと書いてありますよね。
今も色あせることのない、これらの言葉を必要としている人って、
結構いるんじゃないかと思います。
小沢健二という人は、繊細なのに、すごい強さと明るさ、
優しさ、あふれるパワーの持ち主ですよね。
そのパワーをキャッチすると、とても元気になれます。
miyata
2008年12月26日 23:34
再びのコメント、ありがとうございます。
そうなんですよね。繊細な感覚を持ち合わせていながらも、
パワフルな情熱と知性を併せ持つところが、
彼の存在を一際、際立たせているようにも思えます。
世界は今、いろんな意味でヘビーですが、
そこから目を背けることなくなおも前に進んでいる、
彼の最近の著述活動にも注目しています。
元気になれるってトコ、大事ですよね!

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