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zoom RSS 『極北インド日記』 レー、サブー / ラダック地方 -14'/05/16-05/19-

<<   作成日時 : 2015/04/08 16:19   >>

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出来事の裏には何らかの力が働いているのです。
すべての用意がなされて然るべき機会をうかがっており、
機会が到来したなら、表に出るのです。 ダライ・ラマ14世 / 日々の瞑想

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『極北インド日記』 レー、サブー / ラダック地方 -14'/05/16-05/18-

 昼寝から目覚めてみると、十八時二十三分である。陽はまだ明るく十五時くらいのようだ。十三時過ぎに、ラダックに来て最初の食事を頂き、十分な熱水が出るシャワーを浴びた後、日本のコンビニで求めたウィスキーを、このゲストハウスの娘さんが持って来てくれた白湯で割ってちびりちびりしながら、やはり日本の横浜の古本屋で手に入れた「ダライ・ラマ / 日々の瞑想」を読むうちにすっかり眠ってしまったのだった。懐かしのデリーに着いたのが、未明の一、二時であり、その後レーまでの乗り換え国内線を待つために、三時から六時過ぎの離陸まで起きていたのでさすがに眠かったのだろう。起きて、部屋の大きな縁枠の窓から庭を見ると、おかみさんのスィーリンさんが旦那さんと畑を均しているのが見えた。朝からずっと、庭先では彼らの活気のある生活の会話が絶えることなく聞こえてくる。私はその間、読書と昼寝と、日本への報告のためにWiFiの電波が復活するのを待っているだけなのであった。

 私の最初のラダックでの宿であるZIG ZIG GUESTHOUSEは、レー中心部のやや北東に位置し、すぐそこまでせり上がった岩山の裾に、ちょっとした緑が拡がる界隈である。宿はこの辺りの伝統的建築物の様式を有していて、細やかな彫り物のある白木と白壁を基調とし、清潔感あふれるものである。私のいる別棟の三階より上は、まだ建築途中のような感じで、裏手にはやはりゆったりと大きな窓のある一戸建ての邸が、これまたゆったりとした畑地と共にあり、母親と思われる若い女性が、学校へ行くところの小さな女の子の髪を結いでいるのだった。内に目を転じると、私のいる宿の敷地にある畑地には、白く花咲く樹々が植え込んであり、その前には洗濯物が干されてある。昼ご飯を頂いた食堂は、その樹々に面しており、十三時過ぎに行くと、中から老人の僧侶がおぼつかない足取りで出て来たので、入り口の布を上げて道を譲った。彼はこの宿の居候なのだろうか。それとも、普通の巡礼客なのだろうか。食堂に入って行くと宿の旦那さんがいて、「ジュレー、ジュレー!」と招いてくれる。左手に台所があり、スィーリンさんが昼ご飯を作っていた。昔の日本の御膳のような、ちょこんとした食卓につく。旦那さんがテレビのチャンネルをいじると、インド国政選挙の開票結果をやっていた。日本のニュースでも報じられていた、全国的な国会議員選挙の開票日が、本日五月十六日なのである。後ろの扉から娘さんが出て来て、旦那さんもスィーリンさんも同じ食卓を囲む。夫婦は早口でラダック語と思われる言葉で日常の何事かを話している。特にこれといって私に気を使うという風でもなく、いたって自然体の日常の光景の中に、日本からやって来た私がすとんと入り込んでいるといった感じであった。少しおかわりを頂く。会話帳を見て、「ジンポ・ラクレ(おいしいです)。」「ダンスレ(お腹いっぱいです)。ジュレー(ありがとう)。」とスィーリンさんに言ったら伝わった。WiFiは、時折よく断線するようである。そう言えば、レーに到着した時に空港に迎えに来てくれたスダンマさんの話だと、七月のカーラチャクラの際には、彼の自宅にお世話になることは出来ないと言うことであった。中庭に座って何やら事務仕事をしていた旅行会社を営むサンゲイさんも、カーラチャクラに入場するためのアイ・カードの提供は出来ないと言う。色々と調べてみなくてはならない。

 とにもかくにも、いよいよラダックでの日々が始まるのである。レーの空港へと降りて行く飛行機が、旋回して高度を下げて行く時、斜めに見える岩肌の大地に何度も写真に見たレーの王宮とナムギャル・ツェモ・ゴンパが見えた。様々な意味において、ここはインドではない。仏の教えと山々の懐に抱かれた約束の地なのである。この平和を約束された地にあって、私は私の旅を、かつて同じく平和に満たされた地であったところの日本での暮らしを見つめ直す旅とするのである。一日一日を大切に、仏の教えに従い、平和を噛み締めながら暮らして行こうと思う。

 西暦二〇一四年五月十六日、ラダック一日目、レー、ZIG ZIG GUESTHOUSE

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 八時半過ぎに食堂に行くと、二人の日本人女性がいた。私よりは年上のようであったが、内輪の話ばかりしていたので相手にしないことにした。オリヴィエが来て、昨夜はとても寒かったと言う。寝袋を持っているのに、出すのを忘れてしまったそうだ。いつまで経っても朝ごはんにならないので聞くと、ようやく九時頃にスィーリンさんの娘が、タギ・カンビルと薄い卵焼きを作ってくれた。食後、オリヴィエとまずは街のサイバー・カフェを目指して出発。しかしレーの街中、どこの店もネットは断線中とのことであった。彼らにしてみれば、商売上がったりである。しかしこれで、ZIG ZIG GUESTHOUSE以外のところでも、ネットが使えていないのだと分かった。オリヴィエの持参したGPSも、何故かラダックに来て以来使えないのだと言う。やはりラダックはインドに属してはいるが、インドではない場所なのである。レーのメイン・バザール周辺は、至るところで道路工事が行われていて、非常に混沌としていた。大通りの両脇には、水道工事のためなのか、何かを敷設するようで、四、五メートル程の深い溝が掘ってあり、とても危険である。私たちは取り敢えずレー王宮を目指すことにした。レー王宮に行くには、レーの旧市街を抜けねばならず、その界隈は崩れかかった土壁とレンガの古い土くれのような街並で路地は狭く、オリヴィエ曰く、彼が以前に訪れた北アフリカはモロッコのタンジール旧市街ともよく似ているとのことだった。

 レー王宮は想像していたよりも整備されており、王宮の中にはいくつかの写真等のパネル展示が行われていた。レーの岩山に沿って作られた王宮は、五、六階層になっていて、内部は複雑に入り組んでいて迷路のようであった。そこを出て、さらに奥の高い地点にあるナムギャル・ツェモ・ゴンパへと向かう。途中のゴンパでは、大きなチャンパ(弥勒菩薩)があり、最高地点に立つ白い砦にはためくタルチョは壮観であり、晴れ間の覗いた青空とともに、まさにラダックの光景を目の当たりにした心持ちであった。ここで、私とオリヴィエはたくさんの写真を撮った。その後、もう一度訪ねたネット・カフェはやはりダメだったので、ラマユル・レストランでトゥクパを食べ(裏のトイレへ続く敷地がとても汚かった)、街の中央にあるゴンパ・ソマ、ジャマー・マスジット横のセントラル・アジアン・ミュージアムへ行く。後者は閉館中だった。ミュージアム近くでは、ムスリムのパン屋が軒を連ね、モスク横の出入り口から下校する生徒たちがたくさん出て来た。生徒たちの顔立ちは端正なモンゴロイドといった感じで、みな一様に美男美女である。みんな、「ジュレー!」と笑顔を向けてくれるのだった。

 最後に向かったのは、ZIG ZIG GUESTHOUSEのさらに北東にあるサンカル村のサンカル・ゴンパで、村人に道を聞きながら静かな畑地を越えて行くと、なかなか立派なゴンパがあった。建物の内部は、今日見た中でも一番充実していて、チベット仏教のカラフルで強烈な印象を残す仏尊たちの姿を見ることができた。入口の若い僧侶に聞くと、約二百八十年前の創建だと言う。夕方十八時頃だったが、帰り際にマニ車を持って歩くおばあさんたちを何度も見かけた。おばあさんたちについて、小さな三、四歳くらいの女の子も歩いて行くのである。こうした昔ながらのラダックの人々の光景も、彼女らおばあさんたちの代で消えてしまうのだろうか。しばらく行くと、畑地の一角の水道ポンプのところで、母子たちが洗濯をしていて、すぐ後ろの塀越しにおばあさんが見守っていた。通りすがりのおばさんが、その塀越しのおばあさんに写真を撮ってもらいなさいと言うと、いいよいいよと言うように遠慮するのだった。十八時半にはゲストハウスに戻り、二十時半の夕食までに今日は何故かぬるいシャワーを浴び、少し昼寝。目覚めると震える程に気温が下がっていた。昼夜の温度差がとても激しい。風邪をひかぬように気をつけなければ。夕食は青菜と芋のカレー・ライス。美味しい。オリヴィエとサン・テグジュペリや宮崎駿等の話をして、二十二時半頃に散会とする。宿の主人に聞くと、七月のカーラチャクラ期の宿の予約ができるそうで少し安心した。今日は腰と脚が少し痛い。珍しいことだ。

西暦二〇一四年五月十七日、ラダック二日目、レー、ZIG ZIG GUESTHOUSE

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 今朝も七時半頃起床、少しパッキングをして八時過ぎに階下へ降りてスィーリンさんに朝食を頼む。オリヴィエが降りて来て、「よく眠れたか?」と言う。彼は昨夜、毛布二枚を二つ折りにして工夫して寝たそうで、寒くはなかったそうである。今朝も六時頃から物音がしていて、宿の主人やスィーリンさんが廊下で何やら作業をしていたようであった。スィーリンさんの鼻歌が聴こえてきた。今朝は、四、五人のマレーシア人がチェックインしたばかりで、彼らは大きなカメラを持っていた。食堂で彼らに日本から来たと言うと、正座して「ありがとうございます。」と言うのだった。今朝の朝食では、初めて食パンが出た。一昨年のネパールでのエヴェレスト街道トレッキングのロッジで食べたものと同じものである。オリヴィエと、今日もまたWi-Fiが繋がらないねと話す。それから、台所のフィルター・ウォーターの話になり、彼が行ったアフリカのマリでは、地中深くの泥水しかないために、セラミック製のフィルター・ポンプが使われていたと話した。食後、部屋を片付け荷を庭の椅子に下ろすと、昨日の日本人女性が庭で洗濯物を干していて目が合ったので、「長くいらっしゃるんですか?」と聞くと、昨日は韓国人かと思ったと言われた。顔だけじゃ分からないと。彼女は四月八日にレーへやって来て、カシミール地方へ行く予定だったそうだが、食当たりで体調を崩し、病院の世話になるためにまたレーに戻って来たのだそうだ。地方の小さな村に滞在していたらしい。「ともこ!」とスィーリンさんが彼女を呼ぶ。彼女に誰かからか電話がかかってきたようで、ケータイを受けると彼女は何やら英語で話し始めた。そうするうちにオリヴィエがやって来て、彼女との話はそこで終わってしまった。十時数分前にスダンマさんがやって来た。正確な時間にやって来たのでつい驚いてしまった。彼がこの宿で食事代を支払ったかと言うので、料金は全て出国前に日本円で支払済みだと伝えると、じゃあ行こうと言う。オリヴィエと、握手、抱擁。「メールで写真を送るよ。」とお互いに言い合いお別れとなる。彼はこの後、数日レーにいて、リゾン・ゴンパやラマユル・ゴンパへの旅を計画してみるとのことだった。今日は一日、洗濯やネット連絡(街の回線が復帰すればだが)に費やすと言う。

 初日と同じ青年ドライバーに、サブーまでどれくらいかかるかと聞くと、十五分程で着くと言う。距離は約七キロとガイドブックに書いてあった。レーの郊外の商店で、予備のトイレット・ペーパーを一個五十ルピーで求める。レーの市街境と思われる仏教的な装飾の門の前では、選挙で勝利したヒンドゥー政党の旗を振りながら走る車とすれ違った。門をくぐると、そこは薄茶色、砂色の砂漠のような土地で、その砂地を削って車道としているのみであった。しばらく行くと、盆地の砂地に木々の生えた土地が現れ、その中に家々の建物が見えてきた。幹線道を右へと逸れると、凸凹とした砂の道となり、その先に小さな四角い建物のサブーの尼修道院があった。ちょうど表では建物の外壁に白い塗料を塗っている最中であった。僧院長の女性は、小柄で眼鏡をかけた優しそうな方で、小学校低学年程の女の子たちが袈裟を着て頭を丸め、窓に付いた塗料の跳ね返りを、棒の先に布を巻いたもので拭いていたのだが、さっぱりその跳ね返りは取れていないのだった。建物の奥へと招かれ、祈りの仏間に通されると、そこで我々三人にチャイとクッキーが供された。スダンマさんと僧院長は、何やら近況的な話を交わし、話が終わると僧院長が私に、どのくらいここにいるのかと丁寧にはっきりとした英語で聞いた。何人かの小さい子たちが興味深そうに、部屋に入ってきて正座したが、僧院長が何事か言うと彼女たちは駆け足で元の持ち場へと戻って行った。少しの間、僧院長が席を外すと、ここの修道院の子供たちの幾人かは、ザンスカールの出身だとスダンマさんが教えてくれた。私はスダンマさんに、七月の九日から十三日までの間、ZIG ZIG GUESTHOUSEを予約できたと言うと、それがいい方法だと言った。ドライバーの青年に名を尋ねるとタルチョスだと言った。話が終わるとスダンマさんとタルチョスは早々と引き上げて行き、彼らのジープが砂埃を上げて元来た道を帰って行くのを見送った。そして僧院長が、「さあ、あなたもこれからお坊さんですよ。」と笑って言った。

 しばらく先ほどの仏間に戻りお茶を飲む間、僧院長が仏間の隣にある一部屋を整理してくれて、そこが私の寝場所になった。きっと私の来訪は事前通知されていなかったのではないだろうか。外部からの滞在者がある時は、いつもこのような感じなのかもしれない。部屋の窓からは、右手前方に村の集落が見え、奥には雪を頂いた山脈が見える。修道院直下には、コンクリートで作ったばかりの簡素な堤防が築かれていて、これが二〇一〇年夏の大洪水の爪痕と思われる土砂の中に築かれているもののように思われた。少しカメラを持って、建物の周囲を一回りしたが、少し年長の尼僧たちは、丸坊主の頭の上から下まで白い塗料をたくさん被っていて、棒に巻きつけた白い塗料を含んだ布をベッタンベッタンと建物の壁に叩きつけていた。辺りも、白い塗料の跳ね返りでビシャビシャである。表玄関側では、先程の小さな尼僧たちが作業を続けていたが、窓に付いた塗料は全然取れていないように見えた。部屋に戻り、「ダライ・ラマ / 日々の瞑想」の続きを読む。十二時四十分頃、昼食が運ばれて来た。薄緑色の瓜を少量のマサラ(カレー粉)と煮たものにライス。味は塩味がとても薄く初めは味がしなかったが、先日日本でのティク・ナット・ハンのお弟子さんによる食事の瞑想を思い出し、ゆっくりゆっくりと噛み締めながら食べていると、その薄味なカレーも美味しく感じられてくるのだった。先ほど食事を持って来てくれた子が、お代わりをくれ、デザートに小さなスイカまで頂いた。「ダンスレ(美味しかったです)。」と言うと、少しはにかんでいた。私の部屋の窓に吹く風は穏やかで、辺りはとても静かである。私が件の本を読んでいると、背にある窓の左手上で、誰かがピシャリピシャリと塗料をはねつけている。玄関では犬が寝、猫もニャーニャーと鳴いている。

十四時十七分 サブー尼僧院

 十九時頃、二人の小さな尼さんが、私を夕食に誘いに来てくれた。二人とも最初はラダック語であったので、何を言っているのか分からず、英語で聞き返すとキャッキャッと笑っていた。尼さんと言えども、普通の女の子そのものである。午後に頂いたお菓子(ポテトで出来たおかきのようなもの)の残りとカップを持っていると、一人の少し年長の尼さんが別の部屋から出て来て、一緒に別棟の食堂へと連れて行ってくれた。薄暗くなった外で、私はその焼き菓子の皿をひっくり返してしまった。すると彼女はその焼き菓子のかけらを、出来得る限り拾い始めたので、私も一緒に拾った。落ちてしまったとはいえ、食べ物を日頃から大切にしている彼女たちの気持ちが伝わってきた。拾っている時に彼女に名前を聞くと、ツェリン・ドゥクパと言った。別棟の食堂へ行くと、既に女の子たち(尼僧たち)が車座になってその小さな台所の前にちょこんと座っていて、その座の真ん中に、大鍋のトゥクパをみんなに分け与える僧院長が座っていた。私の左隣の眼鏡をかけた年長の女の子は、英語で色々と私に話を振ってくれた。彼女は、三十歳だと言う。ラダックはいいか、デリーとは違うでしょ?と言うと、笑い声が飛ぶのだった。トゥクパはとても優しい味付けで、塩味も極めて薄かったが美味しかった。先程の女の子に尋ねると、彼女たちは毎朝五時半に起床だと言う。僧院長が、何故ジュレー・ラダックのスカルマさんは今回ラダックに来るのかと私に聞くので、カーラチャクラの勉強会があるからだと思うと答えた。私はそれに加えて、当初自分のラダックでの旅に、このサブーでの訪問はなかったのだが、スカルマさんが私が仏教に興味があると知ってここを薦めてくれたのだと伝えた。龍樹についての本を今読んでいることも言った。僧院長は優しい顔立ちの方だったが、やはりこの十七人もいる大半が幼い尼僧たちの修行生活を支える場の長としての気品をほのかに漂わせており、やはり子供たちの前では、きっと叱るべき時には叱る先生のような存在であろうと思われた。

 この修道院には、米英日独といった国々の訪問者を迎えることがあると言う。訪問者の滞在期間を尋ねると、大体は短くて五日間から、長い人だと一ヶ月程滞在して、瞑想行を行うということだった。みなが食べ終えて少し残った大鍋に、やはり残り物の米を混ぜながら、これは犬たちに与えるのだと僧院長が言った。私が明日のお祈りに参加してもいいかと尋ねると、「もちろん。」と言った。明日の朝は、六時から行うということである。五時半には起きねばなるまい。今日の白い塗料塗りの作業は、朝の九時から十六時までかかって終わったと言う。今日は、一週間のうち唯一の休日(日曜日)ということで、普段の彼女たちは勉学修行に勤しんでいるのだ。道理で、夕方に表のトイレに向かう時、下の涸れ沢の岩々のところで、小さい尼さんたちがキャッキャッと声を上げて遊んでいたのはそういうわけであったのだ。私は今回、たったの二日の滞在であるのだけれども、この今日明日という貴重な尼僧院での時間を大切にしたいと思う。これを書いているうちに、ここの猫がニャーニャーと扉の外側で鳴き、扉の左下の穴から腕を伸ばすので扉を開けてみると、最初は警戒していたが大きく開けると中に入って来て、これを書いている間にも部屋脇に積んだ布団の上でまどろんだり毛繕いをしたりしている。最初はずっと鳴いていて、布団の上で何かをずっと探していたので、もしかしたらいつもはそこにこの猫の寝場所があったのかもしれなかった。トイレは大丈夫なのかなとも思うが、この耳鳴りがするくらい静かな夜に、すっかり寝ついてしまっているようなので良しとする。「ダライ・ラマ / 日々の瞑想」にこんな文言があった。「菩薩行を実践し始めてごく初期の段階では、強い利他心を養うことはできても、世間の中でそれを実践にうつすところまでは行きません。外の世界から望ましからざる影響をうけて、せっかくの決意が覆される恐れがあるからです。その際、一定の期間、完全に俗世から離れて心の内なる力を養う方がよいのです。その後、用心深く社会に戻っていき、困難に満ちた環境で衆生の救済にあたるのです。」私にとっての菩薩行とはいかなるものであろうか。それが、この創作生活、これから私が始めようとする新たな創作生活を基として、私の人生が新しく始まるのだと私は感じている。猫が外に出たそうにしていたので、部屋から出してやる。

西暦二〇一四年五月十八日、ラダック三日目、サブー、サブー尼僧院

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平和の風が
吹いている

幼い尼僧たちの嬌声と
時折吠える犬の声

陽の光を浴びて
純白に輝く嶺々に抱かれて

平和の風が
吹いている

仏が説かれたのは
わたくしたちは
相依って在る、ということ

わたくしがわたくしとして
自立して在る、ということは
迷妄であった

わたくしがわたくしとして
自らの道を行く、ということも
やはり迷妄であった

わたくしもまた
相依って在るものとして
わたくしである

わたくしもまた
縁起の裡に在って
わたくしの道を行くものである

わたくしもまた
この平和の風に吹かれながら
陽の光を浴びて
純白に輝く嶺々の如く

わたくしという
この一瞬の輝きに在るものとして
この道を行くものである

気がつくと
風はぴたりと止み

耳鳴りがするほどの静けさに
辺りは包まれた

廊下の窓を拭く
幼い尼僧たちの

かわいい鼻声が
聴こえてくるばかりである

平和の風が
吹いている

わたくしたちの
一人一人の胸の裡に

この谷を満たす大気のような
清らかな祈りのような

平和の風が
吹いている



画像




「平和の風が吹いている / サブー尼僧院」

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 午前六時より、祈りと瞑想の時間である。六時少し前より、祈りの間で歌が聞こえてきたので行ってみると、みな、ダライ・ラマの写真の方角に向かって経を唱えながら五体投地を行っていた。年長の者、まだ小さな幼い者、中に混じって僧院長も一緒に祈られていた。中に招かれ、私も小さな尼僧たちに混じって五体投地を行った。生まれて初めての五体投地礼であった。実際に行ってみると、全身を使って、頭の中だけでなく、心からの祈りを捧げるには実に気持ちのよい行為であることが実感できた。経の内容や文句は分からなかったが、私はただ、南無阿弥陀仏の名を、私が幼少の頃より唯一知っている、私の祖父が亡くなった際の法要で覚えた南無阿弥陀仏を、心の裡に唱えることとした。五体投地を終えると、部屋の右角、山脈を望むその一角にみな集まり、読経とも賛歌ともとれる祈りの唱和が始まった。小さい僧侶は私をちら見して気にしていたが、青い丸い座布団を私だけ供され、その上に座り、合掌してその祈りの輪に加わった。二、三種類の讃唱が唱えられ、合掌しながら目を瞑っていると、彼女たちの様々な声音の読経が、私の意識の裡に渾然となって浮かび上がってくるのだった。力強く太い年長者の声、まだ音程の高い幼い者の声、もごもごとした虫の羽音のような可愛らしい声、みなそれぞれが、独自の声、テンポ、メロディを持っていて、一つとして同じものはなく、その一つ一つの声が様々なタイミングによって、時に重なり合っては、ハミングのようになり、ある時は低い声と高い声の折り重なった合唱のようになり、ある者の声が止めば、その静寂を他の声が埋めて行くようでもあり、その一つ一つの声の掛け替えのなさ、尊さ、命の響きに、私たちが唯一人の存在としてあるのではなく、互いに相依って存していること、即ち相互依存の裡に私たちが在るということ、その仏の教えのめでたさに、心を新たにする思いであった。

 一時間程行われた祈りの儀式が終わると、僧はそれぞれの居室に戻り、各々経本を読む作業に入るとのことであった。私が今、こうして部屋に戻りこの文章を書いている間にも、彼女たちの声明が聴こえてくる。静かな微笑の裡に、時は流れてゆく。幼い一人の尼僧が、新しく淹れてくれた白湯を持って来て、カップに注いでくれる。幼いと言えども、彼女もまた一人のめでたき御仏に仕える者である。そのめでたき、ありがたき白湯を頂きながら、窓の外を見やると、陽はすっかりチョグラムサルとサブーの谷間を覆っており、その静かな朝のひと時に、私は昨日の「ダライ・ラマ / 日々の瞑想」の続きを読むこととする。

午前七時二十六分

 本を読んでいると、八時過ぎに朝食へ呼ばれる。朝食は、ツァンパ、チャパティ(タギシャモ)、ダル・スープである。昨夜も使わせてもらった、塩味のチリペッパーを振り掛けると。どれも一層美味しく感じられた。普段、日本にいる時はだいぶ塩味の効いた食べ物を摂っているのが分かるのである。ジュレー・ラダックの旅のしおりにもある通り、このサブーの尼僧院は今年の夏にはバスゴー村へと移動し、ここは瞑想専門の道場として一般にも解放されるのだという。現在ここにいる成人の尼僧の方々は、他の地域、レー近郊出身の人もいれば、違う土地の人もいて出身はばらばらであるが、小学校低学年の子たちがザンスカール出身であるというのは、昨日の僧院長の説明の通りである。昨日、猫が私の居室に入って来たという話を僧院長にした。窓を開けたまま寝たのかと彼女が言うので、昨夜の始末をブロークン・イングリッシュでなんとか伝えたのだった。Have a nice dayと食堂の彼女たちと別れ、外のトイレで用を足し、下の涸れた沢で焚き火をして遊んでいる小さい尼僧たちのところに下りて行った。お互い言葉が通じないので、焚き火の火を大きくしてゆくのが、私たちの唯一のコミュニケーション方法であった。その辺のゴミを拾って出来た小さな焚き火に、私がいろいろと燃えるものを足して行くと、彼女たちもだんだんとエスカレートして、いろんなものを拾って来るのだった。ペットボトル、靴の片方、服や口下の切れ端、手袋、ダンボール、タバコの空き箱等々。一見、砂漠のように真っ白な砂地に、実にいろいろなゴミが落ちているのだった。これらはもしかすると、二〇一〇年の洪水によって流された、人々の生活の品々であるのかもしれなかった。最終的に彼女たちは、周囲の堤防工事で使用された青い養生袋まで拾って来てはどんどんくべるので、焚き火はさらに大きくなっていった。ラダック語の冊子を読んで、「ニェランギミンガチインレ(あなたの名前は何ですか)?」と言うと伝わり、名前を教えてくれたが発音が難しいのだった。「ローツァムチャチェンレ(歳はいくつですか)?」とさらに聞くと、ドゥン(七)、ギャトゥ(八)、グ(九)、とそれぞれの歳を教えてくれた。そうこうするうちに、崖の上から年長の子が私たちと遊んでいる子たちを呼びつけたようで、みんなで僧院に戻る。そうして私は、今こうして部屋でこれを書いているのだが、各々の部屋からは、熱心な読経の声がとても早口で途切れなく聞こえてくる。こうして、日々修行のための精進が続いて行くのである。

午前九時五十七分

 今より私は、衆生、生きとし生けるものの為に私の生を捧げること、使い切ることを誓います。
 私は私にできるやり方で、仏と法とこの僧伽に帰依致します。
 
 このように心の裡に誓うと、まるで私の心の裡を聞いていたかのように、
 三つの鐘が招かれたのだった。

十九時二十二分、瞑想後の覚書。

 十時頃まで、上記の本を読んでいたが、布団に入りながら読んでいたのでとても眠くなり、腕時計の目覚ましを十一時半にセットして少し眠ろうとする。しかし十一時頃には、一人の子がチャイを持って来てくれて、寝ぼけ眼でそれを受け取るのだった。となりの部屋からはみんなの勉強の声がこだまする中、私だけ個室であるのをいいことに眠ってしまったわけで、なんだかさぼっていたような気持ちになってしまった。今日のお昼ご飯は、とても良く晴れた青空の下、小さい子たちが食堂の外に敷き布を敷いて、青空の下での昼食となった。みんなちょこんと座って、一人一人スプーンと、水の入ったみんな同じのプラスチックの赤いカップをもらって、瓜とマサラを混ぜたカレー・ライスを頂くのだった。食前のお祈りの後、みんなとラダック語会話帳を使って、ラダック語を交わしながら食事を頂く。なんだかだんだんと打ち解けて来たように思う。もう明日去らねばならないのが寂しいくらいである。前にいた子(十二歳)時々英語で話しかけたがちゃんと伝わらなかったので、食堂の中にいた年長のサルドン(三十歳)が、代わりに答えてくれるのだった。彼女によると、裏山のタルチョはためく頂上までは、歩いて登れるとのことだった。食事中は、みんなの可愛い日常の姿を写真に収めさせて貰えて良かった。食後は、施設の玄関前にあるタンクの水で歯を磨き、ヒゲも剃ったのだがやはり鏡もなく蛇口もないので剃りづらく、結局はトイレの洗面台まで行き剃り直すのだった。その後、また件の本を読み、密教の観想法を学習した。十四時半からは、散歩を兼ねて例の裏山の頂を目指すことにした。最初は、サブー村方面に歩いて行ったが、そこから頂上に向かう道はなく、上に小さな建物(僧院の別棟?)があるのみだったので引き返す。その際、村から一台の車がやって来て、僧院の前で車を停めた。いつものおばあさん犬が、頑張って吠えて番犬の務めをしっかりと遂行しているのが微笑ましかったが、私が向かうと私にも吠え立てるのだった。さっき昼食どきも一緒にいたのに、私もまだよそ者なのである。車には男三人が乗っていて、水道関係の業者であるようだった。私はそのまま岩山を登って、山を隔ててチョグラムサルとサブーと、そのさらに向こうにレーの緑地が見えるのを眺めた。タルチョはたっぷりと空にはためいていたが、いつの間にか曇り空となり、私の好きな陽の光を浴びて輝くタルチョを眺め続けることはできなかった。岩山はなかなかの急斜面で、サンダルのようなクロックスで登るのは少し危なかった。日本の北アルプス焼岳を思い出したが、あの山と同じように岩がぼろぼろと崩れやすいのである。

 山から戻って僧院に入ると、子供たちがチベット仏教の教義問答対決をやっていた。以前、映像で見たことがあって存在は知っていたが、実際に見るのは初めてである。しかもそれをやっているのは、年端もゆかぬ幼い可愛い女の子たちなのである。しかしその取り組みの姿勢は真剣そのもので、あんなに早口で一体何を言い合っているのか、非常に気になるところであった。おそらくは仏教の教義におけるディベート(討論、議論)なのであろうが、時々喧嘩みたいに引っ掴み合いになったりしていて、思わず笑ってしまうのであった。私は少し離れて、その光景の写真を撮ったりビデオを撮ったりさせて貰っていたのだが、やはりそれが気になるらしく、終始こちらの様子を伺いながら、それでもにやにやしていたので、恥ずかしかったのだろう、対話対決をしていた。少し張り切っていたのかもしれない。そうしているうちに、ティータイムとなった。お茶を貰いに食堂へ行くと、年長の二人が砂曼陀羅を練習しているところだった。まだ一番最初の段階であるのか、練習だからなのか白い砂のみであったが、手前の一人はカップを、奥の一人は雲を描いているのだった。砂の入った金属製の筒のギザギザになった部分に棒をあて、そのギザギザの振動の加減によって砂を出してゆき、描くのである。「とても難しい。」と、手前の彼女も言っていたが、とても集中力を要する作業であった。砂の線にさらなる厚みを出してグラデーションを加減する様を見ていると、それが根気のいる繊細な作業であることが見て取れた。部屋へ戻り、デジカメの写真を選別してiPhoneにWiFiで移していると、子どもたちが戸を叩くので、「Dinner?」と聞くと、祈りの時間だったようで、飯のことを考えていて恥ずかしくなりながらも、用を足し参加する。軽く会釈して座に座ると、僧院長は少し笑っていたように思う。まずは朝と同じように読経から始まる。朝よりも幾分か長く感じられ、足も痺れだしたが、あらゆる感覚は一過性のものだと自らに言い聞かせてなんとか耐え抜いた。しかしこれだけ、六十分は優に超える時間、暗記したいくつもの経や讃歌を読み続けられるのは、さすがは僧侶たる者たちの姿である。私はただ、今日読んだばかりの密教の観想法を思い出しながら、利他行に生きる菩提心の決意を念じ、仏・法・僧伽への帰依を表明したところで、ちょうど三つの鐘が招かれ、そのタイミングの良さに、私は、仏・法・僧伽(サブーのみんな)から、その誓いの承諾を与えて頂いたという思いを得たと感じた。これからの行く先々、すべての行いを御仏が見ておられるのだ。三宝に誓って心して生きて行かねばならぬ。

 祈りの後、またしばらくして夕食となった。僧院長からは、私が明日の朝十時に去ることを改めて聞かれた。隣にいたサルドンは、日本の友人は私が初めてだと言い、メールを交換することになった。僧院長が僧院のメールアドレスを私のiPhoneに記してくれ、サルドンが住所を書いてくれた(彼女はwebchatともう一つ、LINEのようなインドで主流であるらしいアプリのアカウントを持っていたが、私はLINEしかやっておらず、彼女はLINEはやっていなかった)。そして僧院長が、私にラダックの(チベット文化圏としての)名前を付けてくれた。その名は、「スタンジン(テンジン)・ニマ」である。スタンジン(テンジン)は、ダライ・ラマその人の本名にあるように仏性と関係のある言葉で(仏の教えを司る、智慧という意味)、ニマは、以前ネパールでシェルパ族のニマさんに聞いた通り、「太陽(日曜)」の意味があるのだと言う。何とも有難い、勿体無い名を頂いた。今日から私は、私の裡にある仏性の拠り所として、このスタンジン・ニマなる名を、生涯をかけて育てて行かなくてはいけないこととなったのだ。私は本日をもって、本当の意味での仏教徒になったのだという思いがしている。今日という日は、後から振り返っても、本当に有難い一日となるのではないだろうか。ちなみに僧院のみんなは、明日から七日間、レーのステート・バンク・オブ・インディアの向かいのところ(ゴンパ・ソマ)でお祈りのイベントがあるらしく、揃って出掛けるそうである。ちょうど私が出て行くにも良いタイミングであったらしい(僧院長の話だと、その後シェイにも行くと言っていたような気もするが分からない)。その後、サルドンたちと日本の仏教、南無法蓮華経、阿弥陀仏の話や、iPhoneの写真、インド内地、ネパール、東京スカイツリーや富士山の写真を見せたり、日本語の五十音についたり教えたりしているうちに、二十二時過ぎまで話し込んでしまった。サルドンはさすがにここの教師だけあって学習能力が素晴らしく、日本語の基本母音「あいうえお」をすぐに飲み込んで、「あかさたなはまやらわ」をすぐに言えるようになってしまった。サルドンも小さい子たちも眠そうにしていたので散会し、最後にトイレに行くと、向こうの部屋からサルドンの、「あいうえおかきくけこさしすせそ…」と、今覚えたての日本語を早速暗唱している声が聞こえてきた。勉学とは、まさにこういうことである。明日は、いよいよお別れだ。明日のお祈りも、丁寧にしっかりと行おうと思う。

西暦二〇一四年五月十九日、ラダック四日目、サブー、サブー尼僧院二日目、二十二時五十一分

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『極北インド日記』 レー、サブー / ラダック地方 -14'/05/16-05/19- Cats Berry Records Blog/BIGLOBEウェブリブログ
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