Cats Berry Records Blog

アクセスカウンタ

zoom RSS 印度亜大陸一周彷徨記、第十一回、プリー、他 / 2012年12月30〜31日

<<   作成日時 : 2014/04/16 21:05   >>

トラックバック 0 / コメント 0

椰子の葉の日陰、散らばった花
門のところで物乞いたちが身をかがめている
助けの手が差し伸べられるだろう、でもその時は既に手遅れ
Bob Dylan / Scarlet Town

from Bob Dylan Japan Tour 2014 (感想は、後日。)
http://udo.jp/Artists/BobDylan/

----------------------------------------------------------------------

 朝、8時過ぎには、朝食を寝室前のテーブルに置き来てくれた男性の声で目覚める。私の寝ている部屋と同室の男たち、他3、4名とテーブルで朝食のパンや自家製のヨーグルトを食べる。20代であろう若い男の子もいれば、私よりも上の40代ぐらいに見える男性もいる。みんな髪はボサボサで髭を生やし、東インド特有の緩やかな時空間の中に体内時計が融け込んでいるかのようであった。ある者は、傍らの流しでおもむろに洗濯を始め、ある者は、朝陽の差し込む中庭で、何を見るともなしに虚空を見やっては、黙ってガンジャを喫している。私はこの後、南インドのチェンナイを目指し、そこから時計回りにインド亜大陸を一周するつもりでいる事を向かいの男たちに話した。一人の男性は、スリランカに近い、天橋立のように長細い半島にある、ラーメーシュワラムが良かったと言う。もう一人の男性は、亜大陸の最南端を越えた西側、アラビア海側の港町、コーチンから内陸の山間に入って行った所にある街がとても良かったと言った。その男は、ガンジャの扱いに経験があるようで、他の仲間の男たちからある種の尊敬を受けているようであった。彼が語る街は、日本のガイドブックには載っておらず、周辺は大航海時代から続く香辛料の一大産地であり、その色とりどりの香辛料が軒先に並ぶ高地の風景には、なるほど、南インドにこんな場所があったのか、と思わせられるものがあった、と彼は語った。時間があったなら、是非お勧めですよと言う(その街の名は、その時は確かに何処かにメモしたはずなのだが、今となっては不明である)。そして、「私は、別の目的でそこの街に行ったんだけどね。」と、悪戯っぽく言った。恐らくは、ガンジャの買い付けが目的だったのだろう。その日はのんびりと、9時過ぎには宿を出て、プリーからバスで一時間程の距離にあるオリッサ州の州都、ブバネーシュワルへ向かう事にした。宿の外に出ると、私の隣のベッドに滞在している青年が、自転車に釣り竿と籠を下げて通りにいた。今日は、朝から村外れの河口で釣りをするのだと言う。釣った魚は、夜、食堂のスタッフに調理して貰って、刺身で食べるのだ。そして彼は驚くべき事に、自転車に乗ってインド中を旅している途中であると言う事だった。プリーにはもうひと月近くもいて、まだ当分この宿に滞在するつもりだと言う。私の旅は、限られた47日間の中で、次から次へ移動を強いられる忙しい旅でもあったが、彼のように、風の吹くまま気の向くままの旅にこそ、インド旅の神髄があるように思われた。そんな彼には、これと言った気負いもなく、バスケでもやっていそうな体格のいい日焼けした肩に短パン姿、飄々とその日その日の毎日を心から楽しんでいるかのようであった。

 昨日とは違う村の集落の一角で、ブバネーシュワル行きのバスに乗った。途中、裸足の老人が乗り込んで来たが、誰も席を譲ったりしない。インドのバスは、運転席の真横のスペースも客席になってしまっているのだが、そこも女性や子供が乗っていて、老人に席を譲るような雰囲気はなかった。女性に席を譲る場面は何度かあったが、彼に席を譲る者はいなかった。彼が貧しい身分の人間であったからなのか。本当の事は分からなかったが、明らかに日本人の私の眼には、違和感として映った。椰子林と湿地、刈り取られた麦畑の牧歌的な風景を通り過ぎ、バスはブバネーシュワルの市街地へと入って行った。鄙びたインドの県庁所在地(正確には州都)と言った雰囲気の通りでバスを降り、オートリクシャーのドライバーたちと近郊の石窟遺跡への値段交渉をする。結局、市内バスが安いと結論したが、ドライバー達は依然として、たかる蚊のように私を解放してくれない。そこへ一人の英語を話す青年が割って入って、私を乗るべきバスに乗せてくれた。彼もその路線バスに乗るつもりだったようで、暫く同乗し、片言の英語で日本から来た事等を話した。彼は親切に、私が下りるべき停車場をバスの運転手に言付けて、下りて行った。私はいつも様々なバス停等で、彼のような大学生風情の男の子に助けられる事しばしばであった。彼等はみんな一様に英語が出来、私達のような困った外国人に親切で、外の世界に興味の心を開いている青年達であった。バス停を降り大通りを渡って、石窟群、ウダヤギリとカンダギリへ向かった。ウダヤギリとカンダギリは、紀元前2世紀頃から開窟が始まったとされる、仏教僧とジャイナ教僧の為の修行窟であった。ウダヤギリ(日が昇る丘)、カンダギリ(壊れた丘)共に、地元の観光客がワイワイとやって来ていて、ウダヤギリの石窟をジャングルジムのように歩き回っていると、小学校中学年くらいの女の子が、出会い頭丁寧な英語で、「Where were you from?」と聞いて来た。まるで、授業で習ったばかりの英語が、ちゃんとこの外国人に伝わるか無邪気に試しているみたいで、なんだか微笑ましかった。細身のブルージーンズにチェックの七分丈のシャツを着たこの女の子は、お父さんお母さん、弟と家族で来ていたようだった。かつての修行僧たちが過ごした石室で、観光に来た男の子が胡座をかいて、手元の携帯電話の画面を眺めていた。年頃の男の子には、修行僧の石窟等よりも携帯画面の方が面白いに決まっているのだった。丘からは、緑地の拡がる郊外が見渡せ、中にはぽつりぽつりと大型マンションのような建物が建設されていた。ウダヤギリから通りに面して反対側にあるカンダギリは、その丘の上に現役のジャイナ教寺院があり、その寺院に続く階段状の参道の縁には、ラージギルの霊鷲山にもいた白い毛並みの手長猿達が何十匹もいた。超薄皮煎餅のようなパパルがたくさん入った、ビニール袋を丸ごと持って頬張る猿等は、もう見た目にもあまり人間と変わらないように見えた。頂上のジャイナ教寺院で、一人のインド人の中年男性にいきなり、「日本は仏教だっけ?」と言われる。インドの人は、いきなり単刀直入に思った事をそのまま言って来る人が多くて面白い。ジャイナ教寺院の参道を再び降りて来ると、小さな石窟の中で、分厚い経典を開いて読経するサドゥがいた。丸い黒縁の眼鏡をかけ、貫禄のある風情に遠くから写真を撮ると、傍らの壺に、喜捨するようにと手振りで促された。私は払わなかったが、碌に喜捨する心づもりもなく安易に写真を撮っている私の方が礼に失する事を改めて思う。その後は市街地に戻り、日暮れまでブバネーシュワル旧市街の寺院群を見て回った。高さ54mのリンガラージ寺院では、外国人はやはり外からしか観れなかったが、他の寺院はどれも中まで入ってみる事が出来た。途中、ヴァイタール寺院の傍らでバイク2人乗りの青年達に、外国の硬貨を集めていると言われ、1円玉をあげると、2人は無邪気に喜んでいた。夕方の陽に照らされた、長閑な小公園のようなラージラーニー寺院では、入園チケットが既に半券になっている使い古しのものであった。ガイドブックに乗っている読者情報によると、チケット販売員がこの使い古しのチケットを使い回してチケットの販売枚数を実際より少なく報告し、その虚偽の報告から洩れた実際のチケット収入を彼等が着服していると言う話であったが、真偽の程は分からない。最後に向かったのは、日没間際に辿り着いた、オリッサ最古のアーチが有名なムクテーシュワラ寺院であった。薄暗い祭壇の奥には、花に縁取られたシヴァリンガムがあり、傍らを逆三角形に頭部を広げた蛇、ナーガ(蛇神)が護持していた。観終わって大通りに出ると、たまたまそこにいたオートリクシャーのドライバーの男性が、親切にも通りの反対側で私が乗るべきプリー行きのバスをヒッチハイクのように停めてくれた。インドの近距離バスは、バス停と言わず、手を挙げると何処でも停まってくれる。反対に、中にいる乗客が車内の壁をバンバン叩くと、やはり何処でも下ろしてくれる。なかなか便利な代物である(だが、このように簡単に乗れるバスに乗って、あの忌まわしいデリーの強姦殺人事件が起こってもいる)。

 12月31日、大晦日。午前中は朝食後、駅へチェンナイ行きの切符の予約へプリー駅に出向く。2時間半もかかって、ようやく1月2日でなく、1月1日出発のブバネシュワール発チェンナイ行き特急をウェイティング・リスト10人待ち(予約キャンセル10人待ち)をTATKAL(緊急割増料金切符)にて、50ルピーで購入した。前に並んでいた中国人の女の子も、同日のチェンナイ行きの切符が取れず、1月1日にブバネシュワールで取得すると言っていた。切符売り場でアイフォーンは目立つようで、いつも近くに並んでいるインド人が話しかけてくる。興味津々である。切符取得のあれこれが終わり、駅の食堂でビルヤーニ(インドの炒飯)を食べる時には、既に時計は14時を回っていた。午後は、一旦宿に戻って用心して財布を置いてから、宿近辺のプリーの浜辺へ散策に出掛ける。初め宿に面した道を海へ向かうと、近所のインド人にこの浜は良くないと言われたので、宿奥の村外れから浜へ向かうと、コンクリートの塀がどこまでも続いてあり、浜辺に辿り着く事が出来なかった。結局は戻って、宿奥から浜へ向かうと、突如として全く違う景色が現れた。灰色がかった椰子の葉で葺いた屋根と、小人が住んでいるかのような小さな可愛らしい家々、勿論道は未舗装である。ここが、太古から変わらない漁労生活を連綿と続けて来た、オリッサの漁民達の真の集落なのであった。家々の路地は、排水の流れとともにあり、酷く臭く狭かった。その排水路の路地を伝って行くと、広大な砂浜に出た。浜では、カードゲームに興じる男たち、浜で魚を水揚げする漁船が、無数浜の沖合に浮かんでいる。一見カヌーのように見える伝統的で簡素な造りのものは、コナーラクの海岸で見たものと同じだ。綺麗な浜を歩いて写真を撮っていると、クリケットをして遊んでいる少年たちが近寄って来た。こちらのデジカメや腕時計を掴んでは、金銭と共に見せてだのくれだの収拾がつかない。金は、ホテルに置いて来たと言ってもきかないのだ。しようがないので、彼らの写真を撮ることで満足してもらうことにする。少年たちはいつも外国人が来る度にこのように金をせびっているのであろうが、本当のところは純粋な子たちである事が、言葉を交わさなくとも分かった。突然自分たちの素朴な生活の中に、大金を持った欧米人等がやってくれば、このようなやり方以外に、コミュニケーションを取る術を知らないのである。そんな中、心遣いのある年長の男の子が、小さい子たちを制し、私を「GO!」と助けてくれる。今のうちに逃げて!と言う事なのだろう。その後、帰り道が良く分からないのでまた浜辺に出てしまった。すると、やはりさっきの彼らに見つかって捕まってしまい、観念して彼等の遊びに暫し付き合う。野球帽を被った少年が上手にコマを回して掌に乗せて見せる。私もやり方を教わったのだが上手く出来ず、それを見た少年が、いやこうだよこう!と得意気にまた回して見せてくれる。彼等は私の様な外国人が村の中までやって来たのがとにかく嬉しいらしく、僕の家に来て!僕の家にも来て!とやかましくはしゃぎ回るのだった。僕ん家の姉ちゃん!とか、僕ん家の鶏小屋だよ!とか、小さなミニチュアのようなメルヘンな村中を案内してくれるのはいいが、方々を歩き回されたあげく、余計に道が分からなくなるのだった。彼らは現地語で何を言っているのか分からないし、村娘たちは大きな瞳で生き生きと挨拶をしてくれるが、放し飼いの犬たちに吠えられたりして酷く戸惑った。やはり漁村スラムとも呼ばれているらしいその一帯は、私達の生活水準とは大きな隔たりがあり、私の様な物質文明世界の人間は、好奇と贈与の期待を絡めた存在として映ってしまうのであった。本当は、もっとじっくりと彼らの生活を見、私たちの国にもかつてあった、海と漁による生活の全てを垣間見たい思いもあったが、子どもたちがこれ以上に興奮して面倒な事になるのが心配であったので、早々に切り上げる事とする。最後に、大人しく街への道案内をしてくれた少し年長の男の子が、期待を込めて、「明日、また来る?」と言った。私が、明日チェンナイへ発つ旨を伝えると、彼は少し寂しそうに、それでいてそっけなく、私に別れを言って道を帰って行く後ろ姿が印象的であった。

 帰宿後は、近所の酒屋でラム酒を買って一人飲みながら一休みする。するとガンジャ使いの男性に、もう一人の男性が、今日手に入れたばかりの上物(と思われる)大きなガンジャの束を中庭のテーブルに広げて得意そうに話し始めた。彼等の笑顔を見ていると、本当にガンジャ好きなのだなと思われた。ガンジャ使いの男性が、私の隣に座って喫し始めたので、一回喫させて貰う事にした。彼はその一言が嬉しかったようで、どうぞと薦めてくれた。私は以前、何年か前に古い友人に喫させて貰った事があったが、その時は少量であった事と、自分自身当時は良く煙草を吸っていた事もあって、その時は別段何の感慨もなかったのだった。ガンジャ使いの彼はとても親切な人で、まず、ガンジャの基礎知識としての良い点と悪い点をおさらいしてくれた。まず、その効能においては、その人それぞれの個性を強める傾向があると言う事。喫煙者の心が、疑念や恐怖等の脅迫観念に囚われていれば、そう言った悪い思念を増幅させる結果にも繋がるし、何も心配事もなく、ポジティブな思いでいれる性分、もしくはそう言った精神状態であるのなら、心安らかに楽しむことができる。というような事を解説してくれたのだった。そうこうしながら喫させて貰っていると、いつの間にかみんな中庭のテーブルに戻って来ているのだった。ガンジャ使いの男は、十分に酔いが回ったらしく手首を蛇のようにくねらせて陶酔状態に没入した。私はテーブルのみんなと会話をしながらで、始めは何ともなかったのだが、話しているうちに感覚的変化が訪れた。それは、以前の喫煙時には感じられなかったものであった。やがて、目の前の人間と、その他背景との間に視覚上の差異が生じ、より対象物(ここでは面前の人間の輪郭)が立体的に見えるようになり、無駄な会話が出来ない感じで、軽度の金縛りのような状態に没したのであった。その後、暫く精神の重厚さが増して行き、傍らのベッドで横になってはみたが、今度は音に反応して脳裏に視覚的な像が花火のように踊る不可思議を経験したのだった。しかしそんな感覚の差異も次第には収まり、宿の宿泊客全員が中庭のテーブルに集まって、大晦日の年越しうどんを食べながら、日本時間の年越しをカウントダウンした。「迎春賀正新春」と書かれた書き初めの半紙が壁に飾られ、インド麦酒で乾杯となった。テーブルには、普段一緒に過ごしている若い人間だけでなく、海賊のような黒い眼帯をした長身の老カップルや、30年ぶりにインドに来たと言う初老の男性等、日本では見る事の出来ないような特異な風貌をした日本人が幾人か同席していたのだった。まるで法の外側で生きているかのような出で立ちの人々である。30年ぶりにインドに来たと言う初老の男性に、今のインドは汚いですね。ゴミが多くて。と言うと、いや、30年前はもっと汚かったよ、と返され、ぞっとしたのだった。インド時間の年明けは、みんな宿の屋上に集まり、打ち上げ花火やら手持ち花火やらを持って景気良く行われ、午前零時をもってプリーの海岸線でもちょっとした花火が上がった。女の子達は全員、自分の花火の火花を携帯のカメラで撮っている。フェイスブックにでも載せるのだろう、みんながみんな一様に同じ行動をとっているのが、なんだか滑稽でもあった。深夜の中庭では、小さなミラーボールが深緑色に輝き、若い子たちはアンダーワールドやモンゴル800等をかけては踊り明かしていたが、私はガンジャの酔いもすっかり醒めて、明日のチェンナイに備えて深夜1時過ぎには寝に着いた。普段は落ち着いた雰囲気の宿の主人も、この年明けは可笑しい程にノリノリであった。

----------------------------------------------------------------------


画像



2012年の大晦日、プリーの漁村で。

Flickr / Dharma Bums / Bhubaneswar India 2012

https://www.flickr.com/photos/116171756@N05/sets/72157640495053323/

Flickr / Dharma Bums / Puri 2012-13

https://www.flickr.com/photos/116171756@N05/sets/72157640494441883/

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
印度亜大陸一周彷徨記、第十一回、プリー、他 / 2012年12月30〜31日 Cats Berry Records Blog/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる