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zoom RSS 印度亜大陸一周彷徨記、第十回、コルカタ、プリー、他 / 2012年12月28〜29日

<<   作成日時 : 2014/03/31 20:36   >>

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跫音が記憶の中でこだまする
我々が通ったことのない路を
我々が決して開かなかったドアに向かって
薔薇園の中に下りて行く
私の言葉もこのようにこだまする
君の心の中で
トーマス・スターンズ・エリオット
四つの四重奏 / バーント・ノートン

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 28日は、13時50分頃にコルカタ(カルカッタ)へ到着した。デリーを出て以来、久方ぶりの大都会である。天井が高く巨大な駅構内(駅名は、ハウラーと言う)は、終着駅らしい行き止まり型のホームになっていて、二十代の頃に旅をした、ドイツのハンブルグ駅の構内に雰囲気が似ていなくもなかった。なんだかんだで、2012年も残すところ、後4日となっていた。私のインドに来る前に立てた計画では、年末年始は南インドのチェンナイ(マドラス)で毎年この時期に行われているという、音楽祭(チェンナイ・ミュージック・シーズン)を観て回る事になっていた。と言う訳で、コルカタに着いて、まずはすぐに切符売場に並んだ。チェンナイへ向かうのだ。インドの鉄道は、まだ切符の自動販売機と言うものがない。いつものように細かい切符申込書を書き、ようやく番が回って来て、コルカタから一気にチェンナイへ向かう切符を要求した。切符売場の男は、味付け海苔のような口ひげを蓄えた癇癪持ちで、半分キレかかったような口調で、この忙しい年末に、チェンナイ行きの切符なんかない。しかも今夜発の列車なんて、そんな虫のいい話があるか。と言った風情であしらわれる。これもまたいつもの事だが、切符売場の職員にとって、目の前の客が切符を取れるか取れないか等、どうでも良い問題なのだ。そんな訳で、私は次の作戦を考えた。少しでもいいから、チェンナイに近づきたい。音楽祭は年始もやっているはずなので、今年中にチェンナイに辿り着く線は諦めた。それで、ヴァラナシ駅で並木さんが話していた、オリッサ州のプリーへ行ってみようと思い立ち、今度は行き先をプリーと書き直して、癇癪持ちの男に渡した。男がキーボードを叩き、PCのディスプレイを睨む。プリー行きもないと言う。TATKALならどうか?と聞き糺す。TATKAL(緊急の意)と言うのは、通常の運賃に割り増しの料金を払う事で手に入れる事の出来る切符で、ブッダ・ガヤーの切符売場で今回と同じような事態で困っていた際に、傍らのインド人が教えてくれて知った方法であった(切符売場職員は、そんな大事な情報を教えてくれようともしなかった)。だが、TATKAL購入の際、外国人はパスポートのコピーが必要なのである(インド国籍者は、恐らくIDカードのコピー)。コピーがないからダメだ。と、結局窓口から弾き出される。一旦駅を出て、コピー機のある店でコピーを取り、再び長蛇の列に並び直す。癇癪持ちの男の接客は、相変わらず目を見張る程の高飛車ぶりである。時折、窓口の中の同僚の職員と内側でも喧嘩を始め、その口論の間、長蛇の列は完全に相手にされないのだった。列に並ぶ老若男女からは、非難轟々である。そうこうしてようやく、TATKALにてプリー行きのチケットが手に入った。時間は、もう16時だった。あの癇癪持ちの男は、今日もまた、あらゆる人間と喧嘩をし続けているのであろう。

 プリー行きの列車は、20時55分発予定であったので、駅にザックを預け、駈け足でコルカタの街を練り歩いてみる事にした。赤煉瓦造りのハウラー駅を出て、大きなフーグリー河に架かるハウラー橋を渡る。街の南西に位置する、ヴィクトリア記念堂のあるモイダン公園までコルカタ・メトロで往復してみる事にしたのだ。ゴツい鉄骨のハウラー橋の上を黄色いタクシーが何台も通り過ぎる。私達歩行者の歩道は、年末のアメ横のようにごった返していた。フーグリー河岸には、ビニールシートで覆われたバラック小屋の露店街が広がり、その未舗装の道には、ビニール袋等のゴミが大量に散らばっていた。ブッダ・ガヤーで、世界一周の末にインドに辿り着いた牧くんの話では、このような風景は、発展途上国と言われる国々では、何処でも共通するものだと言う事だった。だが、彼は最後にこう付け加える事も忘れなかった。インドが一番臭くて汚い、と。直近のメトロ駅まで、旧市街を2.5km程歩くうちに、陽が暮れて来た。路面電車の走る大通り、マハトマ・ガンジー・ロードは、大都会の常で、歩行者が歩道からはみ出て車道を浸食し、その上を半身を乗り出した車掌を乗せたバスが行き来する。デリーで大八車に足を轢かれた時の恐怖が蘇って来て、とにかく足を轢かれないように気をつけた。コルカタ・メトロのマハトマ・ガンジー・ロード駅に着いた頃には、すっかり陽が暮れていた。有人窓口でプラスチック・コイン型の切符を買い、煩雑な危険物探知ゲートを通って改札へ。地下鉄車内は、ラッシュ時間帯に近いのか混雑していた。車内に広告は一切なかった。ヴィクトリア記念堂に一番近い、ラビンドラ・サダン駅で下車。モイダン公園の敷地を歩いて行くが、肝心のヴィクトリア記念堂は、建物の大分手前の門が閉まっていて、遠く間接照明の中にうっすらと浮かび上がる記念堂の姿を見ただけであった。白亜の記念堂は、植民地時代にインド皇帝を兼任していた、ヴィクトリア女王の為に作られたものだと言う。噴水に軽い照明がある程度で公園は真っ暗であった。公園の暗闇のここかしこでは、若いカップル達が束の間の逢瀬の時を過ごしていた。どこの国にでも見られるような都市の夜の光景である。敷地の端に、ライトアップされたセント・ポール寺院が見えて来た。寺院は、60mのゴシック式カテドラルを持つ教会で、インドに来て初めて見た本格的西洋建築であった。教会の周りには、いくつかの聖人の墓があり、厩で生まれたイエス・キリストの場面を再現した人形たちが、照明に照らされていた。モイダン公園は、元々、1690年に始まるイギリス東インド会社の拠点要塞の跡地であった。コルカタは、1911年のデリーへの遷都まで、イギリス領インド帝国の首都でもあり、文化経済の中心として、様々な要人を輩出しているそうだ。私の分かる範囲では、シタール奏者のラヴィ・シャンカールや、映画監督のサタジット・レイ、詩人のタゴール、マザー・テレサや、ラーマクリシュナとその弟子、ヴィヴェーカーナンダ等の活躍した地でもあった。もしまた訪れる機会があったなら、その時は、彼等のゆかりの寺院や住居を尋ねてみたいと思う。公園のすぐ隣には、真新しいシネマ・コンプレックスが出来ていて、家族連れのインド人で賑わっていた。飾られていたパネルは、ミスター・ビーンだとかタンタンだとかチャップリンだとかで、よく見ると、第二回国際子供映画祭と英語で書かれていた。来た道を戻り、また地下鉄に乗ってマハトマ・ガンジー・ロードを駅に向かった。ハウラー橋近くの交差点で、四方八方から雪崩れ込んで来るバイクや車の群に、本気で轢かれそうになった。ハウラー橋は、紫色の照明でライトアップされていた。列車の出発一時間前には駅に辿り着き、構内の食堂で夕食を摂る。

 29日は、朝6時にプリー駅に着いた。トイレを探して入ると、そこは一等乗客用の待合室であったらしく、トイレの隣にシャワー室があった。ヴァラナシ以来、シャワーを浴びていなかったので、無断で入らせてもらう事にした。待合室にザックを置き、周りのインド人が品が良さそうで信頼出来そうなのを確認してから、シャワーを浴びに行った。シャワーは勿論水だが、プリー辺りまで来るともう南国の暖かさであり、ちょうど良い塩梅であった。久々にさっぱりとして、7時過ぎに駅を出、駅近くの小さな日本寺を覗いてから、サイクルリクシャーを拾い、ガイドブックで見つけた村外れの日本人宿に向かった。年末年始は、日本人のいる場所で過ごそうと思ったのである。熱帯特有の霞んだ曙光の中、プリー村の長閑な風景が立ち昇って来た。太いガジュマルの木に祀られるヒンドゥーの小さな祠、独立運動家チャンドラ・ボースの銅像は、朝陽の中で右手を挙げていた。いよいよ、北インドではない。私にとっては全くの未知の世界、オリッサ州のゴールデン・トライアングルである。柔らかい椰子の木陰、ぐにゃぐにゃまんまるのオリヤー文字、右掌を掲げた猿神ハヌマーン、何一つ肩を張る事のない、穏やかな空気が拡がっている。リクシャー・ドライバーは初め、私が指定した宿と同じ名前の、しかしながらグレードが上のホテルの前で停車した。実際の宿は、もっと村はずれの、未舗装道路の先、海岸沿いの漁村の少し手前であった。ドライバーが、遠過ぎだよと言うので、50ルピーに少し足して支払った。宿は戸締まりがしてあって、呼び鈴を鳴らして中へ入れて貰った。日本人宿のロビーには、日本語の本がたくさん置かれた本棚があり、宿のオーナーも日本語が出来、まずは、日本語で書かれた宿の諸サービスの価格表を見せられた。朝食、日に二度のチャイ(インド紅茶)は、部屋まで運んでくれると言う。早速、ドミトリーの一室に案内され、手作りの葡萄パン、梨、ダル(豆)スープの朝食を頂いた。私の部屋は、若い男性が既に4名滞在しており、シャワー室兼トイレ、洗面所、洗濯場は共同、部屋の外には、共有スペースがあり、机やソファーがあった。私が昔通っていた、高円寺の美術専門学校の緩い雰囲気を思い出させた。9時半には、再びプリーの中心部へ向かい、そこからバスに乗って、35km東にある、コナーラクのスーリヤ(太陽)寺院へ向かった。右手に、ベンガル湾を見ながら進んで行く。コナーラクの太陽寺院は、海水浴場のすぐ隣にあった。寺院は、直径3m超えの石彫りの車輪24個に支えられた、巨大な馬車を模したもので、13世紀に北方のイスラム勢力に対抗し続けたとされるガンガー朝によって建てられたものであった。域内は、やはりインドの観光客で溢れ、修学旅行の学生達もいっぱいいた。真っ白なセーラー服(文字通り水夫のような)を来た男の子達と何枚か写真を撮った。帰りの参道で、美味しい昼食を摂る。ネパールのように、給仕がバケツで腹いっぱいになるまで何度もお替わりを入れてくれる。満腹で通りに出て暫くして、支払いをしていない事に気づいた。ま、いいかと、久方ぶりにタダ飯を食べてしまった。昔、東京渋谷のうどん屋で、うっかりタダ飯を食べてしまって以来、久々のタダ飯だったなあ。等と、そんな風に得意に思っているのは今のうち。案の定この後の旅中で、いよいよ食べ物によるトラブルに見舞われる事になるのだった。

 隣の砂浜まで歩いて来ると、そのだだっ広い海岸線の向こうに、地元の人達の水揚げ風景が見えて来た。キラキラと輝く陽光を背に、昔の東京湾のべか舟に似た小さな漁船が、何隻も浜に帰って来た。浜には、網にかかった魚を広げる為の青い網が布いてあり、そこに魚が水揚げされると、漁師の家族、女性や子供と総出で、その小アジほどの銀色に輝く魚を、底の深い銀色の壺に移して行く。捻り鉢巻きをして、腰巻き一丁になった出っ腹の親父さんにカメラを向けると、おまえら外国人の見世物じゃないぞ、あっちへ行け、とでも言うように手を振られた。村人達が、次から次へと魚を水揚げして行く傍らを、少女や男の子たちが遊んでいる。引き揚げられた小舟の傍らで、奥さん方が身を横たえて休んでいる。若い男達は、手際良く使い終わった網を畳んで行く。魚で山盛りになった銀の壺を頭に載せて、女達が横一列に歩いて行く。早速、捕れたての魚を売り捌きに行くのであろう。それら砂浜で行われている人々の営みそれぞれが、ただあるがままに美しく詩的であった。海水浴場から、再びバスに乗ってプリーへ戻る途中、隣に居合わせた青年に、どこの国の人間かと聞かれた。そして今時の若者らしく、二言三言の次には、フェイスブックのアカウントを交換しようと言った。かつては一期一会で、二度と合う事のない人でも、今ではこうやってネットによって繋がりが続く事もあるのだった。15過ぎには、プリーの大通りに戻って来ていた。ヒンドゥー教四大聖地の一つであるプリーのジャガンナート寺院には、日本の京都祇園祭のルーツとも言われる巨大な山車祭がある。私が訪れた時はそのシーズンではなかったが、寺院に面した大通りはたくさんの人だかりで、片側4車線もありそうな幅広い大通りの真ん中で、牛が勢い良く脱糞しているのだった。東京で言ったら、環八や環七のど真ん中に、たくさん牛が寝ているような光景である。すぐ鼻や尻尾の先で猛スピードで車が走り抜ける中、牛達の表情は、そんな現代のモータリゼーション等、全く意に介さないかのような無関心ぶりであった。その大通りの行き止まりが、ジャガンナート寺院の入口になっていて、たくさんの露店がひしめき合い、参拝者たちが溢れていたが、私は外国人なのでまた境内には入れず、ガイドブック通りに、外の図書館の屋上から眺めようとするが、その図書館らしき廃屋は閉鎖されていて、またしても都合良く現れたインド人について行って、お礼にルピーを渡し、そのビルの屋上から寺院を見渡した。境内には巨大な彫刻塔があり、コナーラクの太陽寺院よりも高く、正に現役のヒンドゥー総本山の一つ、と言った貫禄であった。ご本尊として祀られているのは、元はオリッサ地方の土着神であった、ジャガンナート神。手足がなく、黒い丸太のような体をした特異な姿は、現代の私の目から見ると、なんだか流行りのご当地ゆるキャラのようなポップさを醸し出しているのだが、13-14世紀のキリスト教宣教師の記録によると、信徒は救済を求めて、この山車に喜んで轢き殺される風習があったとの事である。英語での転記、 juggernaut(ジャガーノート)は、「恐ろしい犠牲を強いる絶対的な力や存在」を意味する単語となっているのだった(ヒンドゥー教に習合された現在では、ジャガンナートは、ヴィシュヌの化身の一つである、クリシュナと同一視されている)。寺院を後にして、中級ホテル街横のプリーの海水浴場へ出る。砂浜は、夕陽を浴びながらはしゃぎ回るインド人家族でいっぱいだった。ロバや駱駝に乗って遊ぶ母子、凧揚げに興じる男の子、ゴム巻き飛行機やスーパーボールを売り歩く中年男性、風船売りの青年…、彼等のシルエットが夕陽を受けて真っ黒い影だけになると、今日と言う一瞬の煌めきの中に、人々の人生が在る事を感じるのだった。日が暮れた夕闇の中をサイクルリクシャーを拾って、宿に帰る。宿は、日本人ばかりが泊まっているので、ネット部屋や廊下の机や共有スペース等で、色々な話をする。ネット部屋では、中年の男性と日本の政権がまた自民党に戻ったらしいと言う話をした。彼は、そりゃ民主党にゃ任せておけんでしょ。と言うような話で、語気強く日本の政治について語るのだが、そのような話を、蒸し暑い東インドの夜に、麦酒を飲みながら語ってもなんだかリアリティのない話になってしまうのだった。彼は、療養の為にインドに来たと言っていた。北インドの温泉に浸かりたいと言う。夜、食堂へ行くと、なんとヴァラナシ駅のホームで束の間を過ごした並木さんが、食堂の仕事を手伝っていた。日本人宿だったので、もしやとは思っていたが、やはり会えたのである。宿は、宿泊している日本人の若者達が、それぞれの仕事を手伝っているようであった。夜は、麦酒を飲みながら、並木さんやカメラマンの仕事をしている男性と話しながら楽しく過ごした。

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画像



漁を終え、岸に上がる漁船。コナーラクの海岸で。

Flickr / Dharma Bums / Kolkata India 2012

https://www.flickr.com/photos/116171756@N05/sets/72157640493162703/

Flickr / Dharma Bums / Konark 2012

https://www.flickr.com/photos/116171756@N05/sets/72157640494867444/

Flickr / Dharma Bums / Puri 2012-13

https://www.flickr.com/photos/116171756@N05/sets/72157640494441883/

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