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zoom RSS 印度亜大陸一周彷徨記、第九回、ブッダ・ガヤー、他 / 2012年12月26〜27日

<<   作成日時 : 2014/03/20 18:38   >>

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「思想は一つの意匠であるか」
仏は月影を踏み行きながら
かれのやさしい心にたづねた。
萩原朔太郎 / 思想は一つの意匠であるか

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 朝の8時前には、ガヤー駅からオートリクシャーにて、ブッダ・ガヤーへ到着した。釈尊が悟りを開いた場所とされる、マハーボディー寺院(大菩提寺)を中心に、各仏教国の寺院が配される街は、サールナートよりは規模が大きいものの、やはりのどかな村落と言った風情で、通りに仏具等を広げる露店を、えんじ色の袈裟を着たチベット僧が何人も歩いて行く。その中を歩いていると、バイクに乗ったインド人が話しかけて来て、自分がオーナーをしているLoad Buddhaと言うホテルを薦めて来た。私達は牧くんの提案で、まずは日本の僧侶もいると言う宿坊仏心寺へと向かう予定だったので、一旦断り、仏心寺へと向かった。案内された部屋は、ドミトリーであった。結局、先ほどの薦められたLoad Buddhaに行き、そこの二人部屋に牧くんとチェックインした。街で昼食を摂り、まずは釈尊が修行に籠ったとされる、前正覚山へと向かった。オートリクシャーからは、爆音のご当地流行のインディアン・ポップスが流れ、その中を乾季の為か水が一切見えないナイランジャラー川を右手に見ながら進んで行った。そのインディアン・ポップスのアレンジがまた絶妙で、日本であったらきっと、東京の大型輸入盤店のワールド・ミュージック売場の試聴器等に入っていて、エキゾ/モンド・ポップなんかのカテゴライズ等で売られていたりしそうな感じのする代物であった。しかしそれが、このように見渡す限りの大荒野に、砂埃を巻き上げながら進むリクシャーにガタゴト揺られながら、かつて釈尊が心を悩めながら彷徨ったこの土地に、何もない単調な労働を強いられるドライバー達の、唯一の楽しみとして響く生々しさ、それこそが、最高の聴き方のようにも思え、実際このような場所から、力強い音楽が生まれて来るのだなと、強く感じたのであった。だが、こう言った音楽も、日本の都市空間の中で聴こえて来たのなら、なんだかフラットな消費材のように、耳を通り過ぎてしまうのかも知れなかった。それと共に、アスファルト道路では、スピードの出し過ぎを予防する為か、ある間隔ごとにアスファルトが凸上に盛られていて、その凸状舗装の度に、オートリクシャーも車もスピードを落とさねばならない。それでもその上を通る度に、私達は全身ごと大きく上下に揺れてしまうのだった。尻の痛さとインディアン・ポップスの大音響は、私の中で渾然とした記憶となった。その俗味の極みのような重低音の遥か向こう側に、シッダールタが死ぬ思いで苦行を続けたとされる、前正覚山の姿が見えて来たのだった。前正覚山は岩山のような風情で、そんなにも険しい山には見えなかったけれども、ここが酷暑期になれば、気温40〜50度、雨期には洪水になると想像すると、やはり厳しい環境なのだと言わざるを得ない。ナイランジャラー川を渡る長い大橋を渡り切ると、やがては田畑の中の細い未舗装路に入って行った。この農道に毛が生えた程度の道では、車の跳ね上がりは尋常ではなく、私達は前後左右、上下左右あらゆる方向に揺れっぱなしになるのだった。時折には、後ろから四輪駆動車が数台、私達の小さなオートリクシャーを追い越して行き、砂埃を巻き上げては私達に跳ね上げて行く。車内を見ると、どれもえんじ袈裟のチベット僧たちなのだった。「ここでは、彼らの方が強者ですね。」と牧くんが皮肉を言う。確かに、強力な駆動車に乗って、其処退け其処退けとばかりに道を急ぐ車の中に、大勢の僧侶が乗っているという構図は、なんだかちぐはぐな組み合わせで面白かった。

 前正覚山の参道入口の駐車場(空き地)で、ドライバーが待っていてくれると言う。私達は、そこから徒歩で山の上のチベット寺へと向かった。緩やかな坂道の両側では、貧しい物乞いの人々が連なって座っている。彼等の表情はみな淡々としており、その奥では、有料の籠担ぎの男達が、閑を持て余しているのだった。中腹のチベット寺院にはタルチョがはためき美しい。どうやらこれから読経の行事があるようで、多くのチベット僧が集まって座っていた。さっき私達を追い越していった面々も、既に到着していたのであろう。全てが全てチベット僧のえんじ一色と言うわけでもなくて、中には黒い袈裟を来た恐らく日本人の尼さん等も、その読経会に参加しているようだった。寺院の一段奥には、シッダールタ(大悟前の釈尊)が断食の修行で籠ったとされる小さな洞窟があり、中に入ると、金色に輝く、肋骨の浮き出た骨皮だらけのブッダ像があった。仏像と言えば、奈良や鎌倉の大仏さんと言うイメージがある私には、その痩せこけたブッダ像は新鮮に映った。他、寺院内のいくつかの部屋に入って行くと、ダライ・ラマの写真が立てかけられたベッド等があり、ここがダライ・ラマ訪問時に、彼の在所になるのだと思われた。シッダールタもまた、当時のバラモン社会の中で苦行の道を行ったのだが、その中で彼が得たものは、苦行は益がない、と言うものだった。苦行の末、麓のセーナー村の娘、スジャーターの乳粥によって体力を回復したシッダールタは、ブッダ・ガヤーの菩提樹下、何か「本当のこと」を、悟る事になったのだと言われる。釈尊の時代、バラモン教は、あくまで現世利益の為の供犠や支配者層の既得権益としての神への忠誠と言う面を強め、弱者への思いやり、慈しみという観念はとても弱いものであったとされる。釈尊の教えの革新性は、供犠や経典(ヴェーダ)、神的権威の否定、種姓制度の批判等も相まって、急速にこの北インドの荒野から広がって行ったのだった。生きることの「苦しさ」に着眼したその教えは、前正覚山の参道脇の物乞いの人々を見ていると、今もなんの遜色もない一つの思想であったと感じられるのだった。帰り道は、ドライバーの計らいで、麓の村々の中をぬって走ってくれた。村の家々は、牛糞を塗り込めた漆喰や赤煉瓦の壁に椰子の葉を重ねたような簡素なもので、わずかな電柱から電気は通っているようだったが、昔ながらの牛と井戸、農耕による静かな生活が営まれているようであった。時折通り過ぎる子供たちや村の人々の姿を、良く揺れるオートリクシャーからカメラに収めた。子供たちは決まって、はしゃいで映りたがり、何かくれと言わんばかりに腕を差し伸ばす子もいるのだった。

 夕刻には、ブッダガヤー中心部にある、マハーボディー寺院(大菩提寺)へ向かった。一時期は、ヒンドゥー寺院になっていたというその寺院は、現在は仏教徒の手に還されている。境内には、釈尊が悟りを開いた時に生きていた菩提樹の直系の子孫と言われる菩提樹が枝を広げ、その下では、様々な人種の人々が経を唱えて座っていた。寺院を回って五体投地する巡礼者、板の上で何度も五体投地する人々の中には、白人の人達も何人かいた。夕陽に影となって行く寺院は、敷地一杯の人々で溢れ、寺院を中心に祈りの渦が生まれているかのようであった。私は、また寺院内のブッダ像から出て来る時に、僧からお供え物を頂いた。サールナートの時もそうだったが、インドに来て初めて私は、自分達が、施しをする側の人間であるだけでなく、される側の人間でもあるのだというその平等性に、何とも言えぬ有り難さを感じたのだった。見ず知らずの多くの人々に混じって、群衆のひとかけらとなって、全体の一部となって、一部でありながら、全体というものを構成する一要素となって、皆と等しく祈りの場にあると言う事は、インド社会が持つある種の大きな安堵感に繋がっているように思われる。それは、日本社会でよくネガティヴな表現として使われる、大衆心理というものに、構造的には似ているようで、その本質は、極めて非なるものであると私は思う。インドにおける大衆の眼は、一つの大きな眼であり、その眼は一個人では捉えることの出来ない、大いなる能力を持つ眼である。日本人が群れることで盲目的なってしまうのとは対照的に、インドの人々は、群衆の一部となる事で、世界の一部に還って行く事で、ある種の眠りから醒めて行くのである。釈尊は、一見、群衆を避けるかのように、“寒さと暑さと飢えと渇えと、風と太陽の熱と虻と蛇と、これらすべてのものにうち勝って、犀の角のようにただ独り歩”む道を選んだのだったが、その旅路の果てに待っていたのは、スジャーターという他者の思いやりであったのであり、その救命行為によって命を取り留め、あらゆる生類、非生類との繋がりを認識するに至ったのであった。17時からは、日本山妙法寺へ行き、牧くんと一緒に座禅に参加した。座禅が終わった帰り道、妙法寺の門前で、ヴァラナシ行きの列車で言葉を交わした日本人青年、清水さんと、そして午前中、ブッダガヤーの切符売場で後ろに並んでいて少し話した野尻さんという男性とも偶然の再会をした。そんなわけで、日本人4人でチベタン・テント村の食堂へ入って行き、みんなでチベット風の夕食を摂った。清水さんは、このまま年末年始をこのブッダ・ガヤーの日本寺周辺で穏やかに過ごすとの事で、野尻さんとは、翌日、ブッダ・ガヤー近郊のラージギル、ナーランダーへ一緒にバスで行ってみようという事になった。牧くんは、この街にいると言うので、明日の夜に宿で待ち合わす事となった。思えば、カジュラーホー以来の日本人との旅で、言葉の通じ合う有り難みを感じる一夜であった。夜、宿の部屋では蚊が多く、牧くんが十分に戸を閉められないベランダ口の縁に、防蚊クリームを塗ってくれたのだった。

 翌朝、7時に中国寺前で野尻さんと落ち合う。町外れのバススタンドまでオートリクシャーに乗り、そこからは地元の路線バスに乗り換え、まずは仏陀教団の地、ラージギルへ向かった。北インドの朝は濃霧が酷く、オートリクシャーから響く、オリエンタルな歌謡曲と相まって、旅情を掻き立てる風情であった。バスに乗り換え、何処までも続く茂みの中に突如城壁のようなものが見えて来るうち、2時間程でラージギルに到着。まずは、停車場近くの竹林精舎跡へと向かった。竹で編まれた門をくぐると、公園のようになっていて、仏像や沐浴池等があったが、当時の竹林は見る影もなかった。一人、仏像の前で携帯を触る僧がいて話しかけると、ミャンマーからの留学僧で、ナーランダーにあるらしい仏教大学に留学しているとの事だった。精舎跡の敷地を出て、小さな川を渡ると、白塗りの日本山妙法寺があった(この寺院は、詩人、山尾三省が、35歳頃、幼子家族を連れての過酷なインド巡礼旅行の際に滞在した場所でもあり、なかでも、同じく日本のカウンター・カルチャー第一世代によるコミューン運動、「部族」の仲間であった友人が、この妙法寺で僧となっていて、三省さんと出家後の感動の再会を果たす話が印象的であった場所でもある)。堂内の脇では、インド人の男性が、南無妙法蓮華経と書かれた太鼓を、規則正しく叩いているのだった。天井の高い堂周囲の壁には、仏陀十大弟子の版画が飾られていたり、原爆による被曝の惨禍を写した白黒写真等が掲示してあった。妙法寺のすぐ隣には、不思議な温泉寺院、ラクシュミー・ナーラーヤン寺院があった。温泉の浴場は、周囲を高い壁で囲われているのだが、その中に浸かっている人間の数が多過ぎて、まるで温泉強制収容所とでも言うような混雑ぶりであった。とは言ってもやはり収容所ではないので、みな思い思いにリラックスして湯に浸かっている。寺院の脱衣場は、屋根がないので外から丸見えであったが、男性は腰着を一枚着けて入るし、女性はサリーのままで入浴するので、あまり問題はないようであった。随所に飾られているヒンドゥーの神像に近づけば、それについて説明をして金をせしめようとする男達がうるさかったので、あまり立ち止まらずに拝観したのだった。最後に向かったのは、釈尊が弟子達に法華経を説いたとされる、グリッドラクーダ山(霊鷲山)である。バススタンドから、南へ5〜6キロという事で、ターンガーと呼ばれる馬車に乗って、霊鷲山の麓まで向かった。周囲はのどかなもので、時折走り去るトラックやバスを除いては、このターンガーと呼ばれる馬車が、パカパカと長閑に行ったり来たりしているのみである。乗っている乗客を喜ばせようと、前のターンガーを追い越したり、追い越されたりとちょっとした競争をしたりする。乗っているインドの人達は、決まって家族連れで、カメラを向けると馬の背越しに楽しそうな笑顔を向けるのだった。

 漢字で霊鷲山と書かれた白塗りの門をくぐると、山の麓には、おもちゃのような個人乗りのリフトがあって、野尻さんとそれに並んだ。暇つぶしに隣に並んでいる家族と一緒に写真を撮ったりしているうち、番が回って来た。リフトは、意外と高度差があり、青や赤のペンキが児童公園の遊具のようであり、その個人乗りリフトにちょこんと行儀良く乗っている老若男女のインドの人達が、なんとも可愛かった。リフトの先には、ラトナギリ(多宝山)があり、真っ青な空をバックに純白に輝く、日本山妙法寺のストゥーパ(ヴィシュワ・シャンティ・ストゥーパ、世界平和塔)が目に入った。日本山の白い寺社に入って行くと、日本の若い僧の方が太鼓を叩いておられた。彼が私達に気づくと、「日本から来られたのですか。お時間はありますか。お茶でも一杯、如何ですか。」と、言ってくれた。この青年僧の方は、なんとも清々しい方で、この日、日本人の訪問者は全く見当たらなかったので、嬉しくなって声を掛けてくれたのかもしれなかった。私達は、その日のうちに、この先のナーランダーへ行き、その後ブッダ・ガヤーへとトンボ帰りの行程であったので、残念だったが、辞退させて頂いた。もし時間があったなら、なぜ彼のような若々しい身で、この遥々ラージギルの地で太鼓を叩く境涯となったのか、聞いてみたかった気もする。更にこの先、霊鷲橋と書かれた石橋を渡ると、なぜかインド人の警察官(もしくは軍属)の男が近づいて来て、意味もなく金を要求するので拒否した。更に小高い頂に出ると、そこがかの霊鷲山の頂であった。四方を赤煉瓦で固めた楼台のような頂にある、小さな金の仏像には、多くの花や供え物が置かれていて、そこからは、かつてのマガダ国の領土が広がっているのだった。この地はかつて、マガダ国の首都であったラージャグリハ(王舎城)のあった場所だそうだが、辺りは一面深緑色のジャンガル(ブッシュ)に覆われていた。一人、息を切らして登って来る、初老の日本人男性がいて、話すと一人旅で、この仏教ゆかりの地を巡っているとの事だった。帰り道、道端のジャイナ教寺院近くの空き地で、焚き木による火葬が行われていた。この地は、ジャイナ教教祖のマハーヴィーラも修行をしていたのだそうで、ジャイナ教の聖地でもあるのだそうだ。この後、ナーランダーの仏教大学跡に着いた時には、もう陽が暮れ始めていた。夕陽に照らされより一層赤味が際立つ、赤煉瓦の大学遺跡を眺め、ブッダ・ガヤーへと帰路についた。野尻さんとは、ブッダ・ガヤーのチベタン・テント近くで別れたが、その後フェイスブックを通じて連絡を取り合い、遂には昨年(2013年)、私が働いていた山小屋へ会いに登って来てくれた。彼は普段、大手機械メーカーに勤務しており、苦労しての連休確保との事で、この後帰国された。ブッダ・ガヤーの宿に着く頃には、もうすっかり陽が暮れてしまっていて、宿の玄関で牧くんが心配して待っていてくれた。彼はまた妙法寺の座禅に参加したようだった。彼とは、再びガヤー駅までオートリクシャーで戻り、彼は帰国の為、デリーへ、私は次の目的地、カルカッタへと向かった。

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「ブッダ・ガヤー /
2012年12月26日」

私たちの体を
上下に激しく揺する
爆走するオートリクシャーに掴まって
インディアン・ポップスの大音響が
仏国土に響き渡る

一切の水はひいてしまって
乾燥した白土が拡がる荒漠の大地に
一条の大橋が架かり
前正覚山を目指して
オート三輪はすっ跳んで行く

凸凹とした
駱駝の背のような田舎道
路肩の瘤と水たまり
時折、チベットの僧侶たちが
四輪駆動車を駆って
私たちのちっぽけなオート三輪を
土埃を舞い上げ、追い越して行く

「ここでは、
彼らの方が強者ですね。」
と、隣に乗っている
同行の日本人青年、牧くんが皮肉を言う

彼とはこの日の未明
午前二時に
深夜のガヤー駅
三等待合室で出会った

東京の大学を一年休学し
アイルランドから
欧州、アフリカ、中東を経て
世界一周旅行の最後に
インドは、ブッダガヤを訪れたのだ

前正覚山への登り道
物乞いの人々
年老いた老女から
子供を連れた母子たち
信仰を前にして、人々は皆平等である
とする釈尊の世から
過去、現在、未来と続く
生きることの苦しみが
どこまでも続くのだ

苦行に行き詰まり
山を下りた痩せ身の釈尊に
乳粥を施したスジャータ
彼女が住んだかつての村々は
今も牛たちと共にあり
生活と言う名の
祈りの裡にある 

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画像



マハーボディ寺院(大菩提寺)脇の菩提樹、仏陀時代の子孫とされる。

Flickr / Dharma Bums / Bodh Gaya India 2012

http://www.flickr.com/photos/116171756@N05/sets/72157640492417064/

Flickr / Dharma Bums / Rajgir, Nalanda India 2012

http://www.flickr.com/photos/116171756@N05/sets/72157640490762135/

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