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zoom RSS 印度亜大陸一周彷徨記、第八回、バナーラス、他 / 2012年12月24〜26日

<<   作成日時 : 2014/03/19 23:57   >>

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すべては我が身の上のこととして
他者の悲喜を わが悲喜とし
あらゆる生物を自己と等しく見る人こそ
アルジュナよ 完全なヨーギーである
神の詩 バガヴァッド・ギーター / 田中嫺玉 訳

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印度亜大陸一周彷徨記、第八回、バナーラス、サールナート、ブッダガヤ / 2012年12月24〜26日

 早朝のガンジス川を後にして、午前9時過ぎには、ヴァラナシ近郊のサールナートにいた。釈尊が悟りを開いて、初めて説法を行ったと言う土地である。まず始めに門をくぐったのは、赤と黄の色彩が強烈な中国寺だった。境内は閑散としていて、中央壇に陶製の仏像が、我々と同じモンゴロイドの肌の色をして座っていた。仏壇の脇には、どのようなルートで仏教がインドから中国へ伝わったのか、その道筋が地図によって示されていた。その赤い線は、この北インドから、ヒマラヤを北西に迂回するように、ラダック、パキスタン、アフガニスタン、中央アジア諸国から西域を伝って、長安を始めとする中原(関中)への道を示していた。反対側には、「世界中の巨仏」と書かれたパネルがあって、その中には日本の奈良大仏の写真もあった。次に訪れたのは、ムールガンダ・クティー寺院である。日本と違って縦縞になっている仏教の五色幕が、神社の幟のように参道の両脇を彩る先にその寺院はあった。石造りの寺院最奥には、黄金の仏陀像があったが、その周りには花が飾られているのみで、日本の例えば浅草寺のような贅沢な装飾等はなく、至ってシンプルな壇であった。寺院の入口には、日本人画家、野生司香雪による戦前に描かれた仏陀の生涯が描かれた簡素なホールがあり、その隅で、二人ばかりのチベット人僧侶が経典を開いて座っていた。外に出ると観光旅行でやって来た、インド人の四人家族が寺院をバックに記念撮影を撮っているのだった。母親も姉妹も共に緑色のサリーを来て、ちょっと腹の出ている父親と一緒に映っているその姿は、典型的なそれでいて幸せそうな、インドのとある家族の肖像であった。

 寺院の周囲をぐるりと右回りに、その建築を外から眺めていると、突然左前方から、一人の老婆が杖をつき必死の懇願の声をあげ現れた。その老婆があげる悲痛な声、喜捨を求める凄惨な声は、その47日間の旅の中でも、後にも先にも聞く事のない程の寂しさに溢れていた。私は、その完全に虚を突かれた戸惑いの為か、彼女を正視する事が出来ず、足を引きずるその声を逃れるように、足早にその場を通り過ぎてしまった。暫く遠退いて彼女の方を振り返ると、私の後からは、白人の男がその彼女と対峙していた。白人の男は、まじまじと彼女の悲痛な姿を目に留め、いくばくかのルピーをそのか細く震えた腕に載せていたのだった。私は、何だか複雑な思いに駆られた。普段は、多くの物乞いの声を、何らかの理由をつけて無視するのが普通になっていたのに、その老婆の、今日明日、生き延びられるのかとでも言うような必死の乞いを退けた自分に、後ろめたい気持ちが沸き起こったのだった。仮に、その物乞いという技術において、あのような演技を身につけられるものなのだろうか。私には、それは本当の、心のそこからの、苦しみの発露のように感じられた。あそこまで、追いつめられた悲壮な人に、私は出会ったことがなかった。何が、彼女をあのような境遇に追いやったのだろうか。カーストか、自業自得によるものなのか、それもまた神の遊戯(リーラ)だと言うのか?そして、あの日だけでなくそれ以前も、そして今日と言う日も、やはりあのお婆さんは、ああやって必死の物乞いをする日々を送っているのだろうか。そう考えると、一体、何をどうしたらいいのだろう。と、私は思う。

 寺院の敷地を抜けると、隣に有名なダメーク・ストゥーパが見えた。凸型の煉瓦作りの大きな仏塔は、広々とした芝生の中にある。私がそこに着いたタイミングでは、黄色い袈裟を着たタイ国籍の仏僧とその巡礼客とが、互いに長い布をストゥーパの周りにぐるりと巻いて、その壁面に幾ばくかの金箔を貼付けていた。それが、彼等の参拝の方法であるようだった。巡礼を仕切る僧は、肩にマイクと拡声機を背負ってその一行に指示を出していた。辺りを見回すと、広い芝生では、輪を描いて座りながら経を読み合う人達、両腕を天に向かって拡げては地に跪く、五体投地のチベット人等、各々が思い思いのやり方で祈りを捧げていた。その周囲では、前3世紀のアショーカ王による僧院群の名残が、赤煉瓦の基部を残すのみである。他、手入れの良く行き届いたタイ寺、堂内修復中のチベット寺を周り、最後に日本の寺、日月山法輪寺に立ち寄った。境内には、瓦葺きの日本様式の寺があり、規模は小さく日本の何処にでもあるような、近所の日本のお寺と言った風情であった。華美な装飾がなく、木が多く用いられ、色彩に渋みが加わる日本の寺は、不思議と落ち着くものがあった。勤行者用の宿泊部屋が連なる軒下には、「宿泊条件」と書かれた額が掲げてあり、僅かに守るべき事として、三か条があげてあった。それは、「一、朝・夕勤行参加」、「一、ガンジャ、チャラス等、麻薬一切禁止、持込不可」、「一、嘘・おだて・盗みはしない」の三つである。境内のすぐ隣の空き地には、真新しいそれでいてサーンチーの大ストゥーパのトーラナ(塔門)を模したような古式の仏塔が建っていて、近づいて良く見てみると、日本語で世界平和を記念した文言が刻まれており、日本人による寄進であるようだった。サールナート(鹿野苑)は、釈尊による初転法輪(彼が、初めて他者に説法をした)の地として、仏教徒にとっては大切な地である。後の経典によると、ブッダ・ガヤーで悟りを開いた釈尊は、当初他者への説法を躊躇ったが、最終的には、梵天(ブラフマー)が彼に、悟りの内容を世に弘めるよう、説得したのだとも言われている。そう考えると、仏教の肝心の始まりにヒンドゥーの最高神でもある、梵天が関わっていたと言う事になり、ヒンドゥー教と仏教の不思議な関係がまた興味深い。

 再びヴァラナシに帰って来ても、まだ15時ぐらいだったので、昨日の朝、リチャードとボートに乗って水上から見た火葬場、マニカルニカー・ガートへ行ってみる事にした。案の定、迷路のような旧市街に迷い込んで方向感覚が分からなくなった私に、一人の男が話しかけて来た。マニカルニカー・ガートへ行きたいと伝えると、ついて来いと言う。路地は、人一人分くらいの狭さだったが、そんな狭い路地にも、大きな牛や山羊がいたり、周囲の建物を食い尽くそうとしているかのような、ガジュマルの老木の根が現れたりする。日中でも薄暗いその路地をついて行くと、男はある地点でもう一人の男にその道案内をバトンタッチした。複数の人間が関わっていると認識した時に、嫌な予感はしたがまもなく目的のマニカルニカー・ガートに辿りつく事が出来た。岸辺一体は、常時運び込まれて来る遺体の焼却で、煤けて真っ黒である。すると、道案内の男が、私を傍らにあるムクティ・バワン(解脱の館、死を待つ者の家)へ連れて行こうとする。そこは、全国から集まった、間もなく死を迎える人々が集まって来て文字通り死を待つ、待機する為の建物で、そこで多くの外国人の若者達が、彼等、死を待つ人々の世話をしていると言うのだった。私は、マニカルニカー・ガートを見学しに来たのだと説明するが、この岸辺より先は、死者の親族以外は立ち入れないと言い、私を強引にそのボランティアに参加させようとするので、それならそれで、立ち入り禁止の外側で見るからと突っぱねると、ようやく男は私の前から姿を消したのだった。火葬場では、写真を撮ってはいけないと聞いていたのだが、近くの白人が撮っているのを見て真似をすると、それを見ていたインド人の青年がキレながら近づいて来た。「これはインド人の文化だ。あんたは写真を撮った。あんたインド人の文化を冒涜した。これからボスにデンワをかける。あんたは刑務所行きだ。」等と、激しい剣幕でまくしたて、自分の携帯電話でボスを呼ぼうとする。私がカメラの画像を消してみせると、男は承知したらしくその件を許してくれたのだった。目の前で、どんどんと運び込まれる死体、燃やされる遺体、布や花に包まれ河に流される遺体、その喧噪の中で、燃え滓の中を漁る人や野良犬、興味本位で集まる外国人観光客、炊き場の間近で死者を見送る親族等が渾然となり、辺りは異様な雰囲気に包まれていた。炊き場から少し離れた所で、その様子を眺めていると、死体焼きの男が私に目をかけて、もっとこっちに来て見てみろと手招きする。そんなに近くでは、親族に失礼ではと思いながら少し近づいてはみたが、間近で頽れる焼き爛れた足等が間近に飛び込んで来て、私はそれ以上近づいて見たいと言う気持ちには到底なれず、すぐに元の場所に戻った。そうこうしているうちに、間近に焼かれずに河に流される遺体が運び込まれて来た。この遺体は、きれいな橙色の布が巻かれ、様々な花や装飾で彩られたまま、小さなボートに詰め込まれ、親族たちと一緒にガンガーの沖合へと漕ぎ出されて行った。ちょっとした瞬間に目を離した途端、私が再びその沖合のボートに目をやった時には、かの遺体は河へと還された後であった。ボートの漕ぎ手が、そして同乗の親族が一礼をした。今生のお別れである。私は思い出した。もう十年くらい前、私と同い年の従兄弟が、二十代でその生涯を終えた時、私達は彼を乗せた霊柩車の後について行くワゴン車に乗っていた。そしてその霊柩車が、彼が住んでいた団地にさしかかった時、霊柩車は一つのクラクションを鳴らしたのだった。その時、表に出て霊柩車を待っていた団地の人々が、一斉に私たちに向かってお辞儀をした。私は、この瞬間の事をずっと覚えている。ああ、お別れなんだなと思った。そして、その瞬間が、この日のガンガーにもあった。仏教文化圏にある私たちは、もし先祖が仏教系であれば、僧侶の念仏によって極楽浄土へと旅立つ事になっている。ガンガーで死を迎えた人々は、耳元でシヴァ神が囁くターラカ・マントラ(救済の真言)を聞き、生前の諸罪を許され解脱するのだと言う。ヒンドゥー教徒は墓を持たないが、命日等の祖霊供養は欠かさないのだそうだ。いつまでも、岸でその様子を眺めていると、少年が威張りながら、そこは俺の場所だ、どけとでも言っているかのように、からんで来た。もう見るべきものは見たと感じたので、マニカルニカー・ガートを後にし、今度はガート伝いにダシャーシュワメード・ガートまで歩き、そこからリクシャーを拾った。運転手は、いつになくおしゃべりな男で、自分はヴァラナシ郊外の出身で、地元では一日30ルピーしか稼げない事、ボスから借りているこのリクシャーには、一日の使用料として70ルピーの支払いがあること、5人の子供がいる事等を話してくれた。多くの出稼ぎリクシャー・ドライバーは、この借りているリクシャーを宿代わりにし、その辺に路駐して眠りに就く。己の体が使い物にならなくなるまで、こうして危険な混雑道路を漕ぎ続けながら、郷里の家族の為に働いているのではないかと思われた。宿に帰り着き、屋上のレストランで夕食を摂りに行くと、ようやく日本人の男の子二人を見かけた。彼等はまだ大学生で、学生旅行で来ているようだった。私が一周旅行の予定でいると話すと驚き、そんなのは怖くて出来ないというような事を言っていた。そんな中、宿の主人の日本人の奥さんともお話ししたりしているうち、カネーラも外から帰って来て、同じ日本人に会えて良かったねと言った。この日は、クリスマス・イヴであったので、みんな自然とレストランに集まって来て、そうこうするうち、南米人の男女がギターと口琴でミニ・ライヴを始めた。演奏は、懐かしき、『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』の主題歌であった。見回してみると、どうも南米人(スペイン系)の若者が多かったように思う。演奏と同じくらい、宿の主人の小さな子供たちが元気にはしゃぎ回っていた。翌朝は、早朝5時台のブッダ・ガヤー行き切符を買っていた。それで、宿のチーフの男に、その時間帯にリクシャーは掴まるかと聞くと、難しいと言う。それなら俺が早朝のオート・リクシャーを手配しようと言うので、彼にヴァラナシ駅までの交通費を渡した。

 翌朝、まだ真っ暗な4時過ぎくらいに宿の入口のシャッターを開けて貰う。オレンジ色の街灯に照らされてうずくまる野犬達が起き出して、私に吠えてかかる。昼は気性の大人しい犬達も、夜はどうも好戦的で、勿論ただ放されたままなのだから、かなり怖いものがある。もしも噛まれた場合には、万一に備えて制限時間待ったなしの狂犬病注射を打たなくてはならない。犬から逃げて反対側の大通り側のホテルの入口に来ると、丁度オート・リクシャーが停まっていて中で運転手が眠りこけていた。私が彼を起こすと、寝ぼけた調子のドライバーはやっと起き出し、深夜のヴァラナシ駅へ向かって走って貰った。駅に着いて、代金はホテルのチーフに払ってあるからねと言うが、聞いてない、早く払えと言う。よく分からなかったが、彼はそのチーフからは報酬を受け取っていなかったようだ。結局、もう一度ルピーを払う事になった。チーフが手配したのがこのドライバーだったのかも、今となってはよく分からない。何はともあれ、無事に4:45には駅に着いたのだったが、結論から言って、私の予約したブッダ・ガヤー行の特急が到着したのは、夜の10時であった。到着予定のホームは、朝は少し凍えるほどに寒く、うつらうつらして待つものの、到着少し前になると、電光掲示板の到着予定時間が先に延びるのである。終止、ホームではヒンディ語のアナウンスが流れているのだが、それを聴き取ることが出来ないので、その度にホームから跨線橋を渡り、駅の中央ホームまで戻って電光掲示板を確認し直す。それを一日中繰り返す羽目になったのだった。12月の北インドは、乾季で気候も過ごしやすいが、目の前が全く見えなくなる程の酷い濃霧が発生するため、列車の遅延が甚だしい。特に、デリー発下り列車に乗る場合なら、デリーから遠退いた駅から乗る程、始発駅から遠い分、遅延時間が蓄積してもの凄い遅延時間になってしまうのだった。駅構内の待合室は、どこもかしこもいつまでもやって来ない列車に慣れっこなインドの人々の宿泊避難所のような様相で、その中を野良犬や猿が行ったり来たりしている。倍の支払いをして午前5時前にやって来た私の苦労は、水の泡であった。しかし、良い出会いもあった。もう陽が暮れるかと言う辺りで、ホームのベンチで岩波文庫の『ブッダの言葉』を読んでいたら、体格の良い長髪の日本人男性に話しかけられた。彼は並木さんと言って、年末を東インドはオリッサ州、ベンガル湾沿いのプリー村で過ごす為に列車を待っているとの事だった。がっしりとした体格で、落ち着きのある話し振りに、きっとアウトドア経験が豊富で旅達者な人だろうなと感じた。以前は料理人等をしていて、この年末年始は、ゆっくりとインドに滞在すると言う事だった。お互いの列車が全く来ないので、一緒にインド人がごっちゃりと雑魚寝している二等待合室に胡座をかき、お互いのインド人への感想や経験等の話で盛り上がった。そして、また何度目かの、私の番の列車到着時刻となった。「それじゃ、また。帰って来なかったら、次の列車に乗ったと思って下さい。」と言って別れたが、その22時頃の列車は本当にやって来て、私はその列車に乗って、次の目的地、ブッダ・ガヤーへと旅立ったのだった。

 ヴァラナシからガヤーへは、特急でも僅か4時間の距離であったが、出発時間が22時であった為、ガヤー駅到着は、翌未明2:30頃になってしまった。当然到着時には、深い眠りにあったが、車掌が起こしに来てくれて、真っ暗闇の客車内から寝惚け眼で降り立ち、その虚ろな意識でよたよたとやはり真っ暗闇のガヤー駅のホームを歩き始めたのだった。約17時間、ヴァラナシ駅で列車を待った後の睡眠を起こされ、とにかく眠ることしか頭にはなかった。ガヤー駅の三等待合室もやはり雑魚寝の乗客でごった返していて、眠る場所はベンチにも床にもない。そんな時に、長身の一人の若い日本人青年に後ろから声をかけられた。彼は、実のところ、昨夜22時のヴァラナシ・ホームでその後ろ姿を目にした青年であった。私はとにかく眠かったので、彼との自己紹介もほどほどに、取り敢えず夜が明けるまでここで寝ますと伝え、「では、また朝に。」と、寝場所を探しにかかった。ようやく、奥のトイレ入口の脇に、大分汚れたベンチの一画を見つけ、その汚れていない僅かなスペースに寝袋を広げて眠る事にした。朝6時頃だっただろうか。「ハレー、クリシュナ!ハレー、クリシュナ!」と、音程の外れた大声の讃歌が私の枕元から響いて来た。私は、ほとんど寝惚けていたが、どうやら私の枕元に物乞いの老人がいて、私にここは自分の定席だからどけと騒いでいるようだった。とても眠かったので私は相手にしなかった。そうこうするうちに、私の寝袋を引っ掴んで、これをよこせ!と言っているようだった。するとその様子を見ていたのであろう、トイレチップ席にいたガードマンらしき男がやって来て、この老人に警棒を振り翳して、何度か殴りつけた(のだと思われる)。すると老人は、哀れな奇声を上げて、まるで「ヒエー、オタスケヲ!」とでも言ってるかのような塩梅だったので、すっかり馬鹿馬鹿しくなり、そのままその事態を相手にせずにまた眠りに就いた。私は自分のリュックを枕代わりにして寝ていたのだが、いつの間にかこの老人も反対側から、私のリュックを枕にして眠り始めていた様だ。とにかく、私は眠る事にした。ようやく待合室も明るくなって来てから起き出してみると、先ほどの日本人青年が座って私が起きるのを待っていた。「二人とも仲良しみたいになってましたよ。」と、彼が言った。彼は、牧くん。東京の有名大学を休学しての、世界一周旅行の最後に、このインドという話で、年末までに日本に帰国するのだと言う事だった。早速、二人でガヤー駅を出て、最近はすっかり気にならなくなった、駅舎の水たまり(実際には、立ち小便によって出来たものの様に思われた)へ放尿し、オート・リクシャーを拾って一路ブッダ・ガヤーへと向かった。

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「サールナート、
2012年12月24日」

釈尊
初転法輪の地
サールナート

ムールガンダ・クティー寺院を出
右へ折れた所で
足を不自由にした老女が
未だかつて聴いた事もないような
悲痛この上ない叫び声を上げて
左手には杖、右手の碗を差し出し
全身を引き攣りながら
バクシーシを求める

不意をつかれた
私は
その姿を
直視
出来なかった

振り返ると
私の後からやって来た
白人の男が
彼女の姿をまじまじと見つめ
ルピーを
差し出していた

私は
ムールガンダ・クティー寺院の
内院にある仏壇のお供え物を賜りながら
窮乏のうちにある
その老女に
何一つ施す事も出来ずに

その場を
立ち去った

釈尊
初転法輪の地
サールナート

ムールガンダ・クティー寺院を出
右へ折れた所で
足を不自由にした老女が
未だかつて聴いた事もないような
悲痛この上ない叫び声を上げて
左手には杖、右手の碗を差し出し
全身を引き攣りながら
バクシーシを求める

その姿を
私は
直視
出来なかった

私は
その場を
立ち去った

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画像



日月山法輪寺横の仏舎利塔 (サールナート)

Flickr / Dharma Bums / Banaras India 2012

http://www.flickr.com/photos/116171756@N05/sets/72157640490751833/

Flickr / Dharma Bums / Sarnath India 2012

http://www.flickr.com/photos/116171756@N05/sets/72157640491225913/

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